2020年09月26日

「と思った」はストーリーではない

小説においては、巧みな内面描写が主題だったりするときがある。
あるいは、Twitterや日記はお気持ち表明の場だったりする。
人は自分がどう思ったか、感じたかについて敏感だ。
他人のそれについてもだ。
それは生活の大半を占めるかもしれない。

しかしそれはストーリーではない。


ストーリーが動くのは、行動したときだ。

逆に、行動しないと、
それは動かないストーリーである。

思ったり、考えたり、感じたり、悩んだり、
ああそうかと思ったり、いやそうでもないかと思ったりすることは、
ストーリーではない。

それは動かない、停滞したストーリーである。

ストーリーとは、「事態の動き」であることに注意されたい。

いや、人間の中にこそ、煩悶の嵐があり、
それを私は描きたいのだ、
という場合は、映画シナリオは向いていないだろう。
小説が向いていると思う。
小説におけるストーリーの定義はここではしない。
ここは脚本論なので、
映画でできるストーリーの表現形態について考えている。

人は小説や現実の人生や映画を並行的に見ているので、
映画シナリオ特有の形式や、
その他特有の形式の違いにまで、
なかなか踏み入って考えられないかもしれない。

ここで扱うのは、あくまで映画シナリオでのストーリーである。


普段からあなたは悩んだり考えたりしていて、
それをシナリオに反映させられないか、
などと思っているのなら、シナリオは辞めなさい。
別のメディアでやるべきだ。

映画シナリオにおけるストーリーは、
行動を一単位として記述されるからだ。

行動は、動詞で記述される。
自動詞か他動詞かは置いといて、
動詞の数が1ページあたりどれくらいあるかで、
ストーリーのテンポは決まる。

数えたことはないが、
1動詞/1ページのシナリオはとてもゆっくりで、
10動詞/1ページのシナリオは怒涛の展開で、
0.3動詞/1ページのシナリオは、たるいだろう。

「言う」は行動だろうか?
そのことによって、他の人が変化したり行動すれば、
それは行動になるだろう。

挑発は行動だ。
扇動も行動だ。
告白も、相手が変化したり行動すれば、行動になるだろう。
宣言も、以後相手の態度や行動に規制が加わったり変化すれば、行動だ。
禁止を口頭で伝えても、それは行動だろう。

今書いてて分かったのだが、
行動にあたる「言う」は、他の言葉、
挑発する、扇動する、禁止する、などのように、
別の動詞で書き換えることができる。
そのような「言う」は行動である。


「思う」は行動ではない。
そのことによって何も起こらないからだ。

「思う」ことで、他の人が変化したり行動すれば行動にあたるが、
それは超能力者でしかない。
思うだけで岩が動くとか、
思うだけで人が破裂するとかならば、
思うことは行動だ。
これも、岩を動かすとか、人を破裂させる、
などのように、別の動詞で書き換えることができる。
そのような場合は、特例で「思う」は行動だ。

なぜ「思う」がストーリーにならないかというと、
人の心の中は三人称形式では見えないからである。
心の中をそのまま見せることはできない。
一方現実世界では、
私は常に思うことがあるし、他人も色んなことを思っている。
ただそれは外には出てこない。

つまり、人の見ている主観世界は、
私の中の一人称+他人の三人称の世界である。
映画シナリオで表現できるのは、
他人の三人称の世界のみである。

例外的に、
ボイスオーバーでその人の心の声を重ねたり、
ナレーターが解説したり、
「私はいま○○○のように思っている」
と突然演劇調で話し出したり、
ペットや岩などに話しかけたりすることで、
表現することは、出来ないではない。

しかしそれはとても不自然な表現法で、
リアルではない。

つまり、リアリティを重んじるタイプのシナリオでは、
初手から「と思う」は封じられているのだ。



じゃあ、思ったことはどのようにわかるのか?


行動と、台詞しかない。


このうち行動は説明なく察することができるレベルだ。
悲しむ人の隣に座ることは、
「その人を慰めようとしている」と、
我々が察することで理解する。
その人を殴ることは、怒っていると察する。
最後までいなくて途中で帰ることは、
怒っているとか抗議していると察するわけだ。

また、他人に言う台詞で、
自分の思ったことを表現することは可能だ。
ただし、
「自分の思うことを開陳して、
どうしたいのか?」までないと、
それは行動ではないので、
「ただ私はこう思った」と言われても、
それは台詞ではない。

いや、だから、どないせえっちゅうねん、
と全員が思う。


台詞は行動である。
ある動詞の形式になる場合は行動である。

そう思ったことは、
言外にたとえば禁止や要求がない限り、行動ではない。

逆に、
思ったことを開陳することは、
通常禁止や要求に値する。

「この部屋暑いね」は、
「クーラーをつけろ(つける行動をせよ)」
という意味だ。


女さんのいうところの、「暑いね」「その気持ちわかる」
で終わりの、お気持ち表明は、
ストーリーでも行動でもなんでもない。

だから、三人称形式では、
「共感する」は行動ではない。

ここが、映画形式が女さんに向いてない、
決定的な部分ではないかと僕は考えている。
(逆に少女漫画においては、
お気持ち表明であるところの、ボイスオーバーがとても豊かで、
一人称表現が三人称表現より多かったりするところがある。
そしてその実写化では、豊かなる一人称表現が抜け落ちて、
抜け殻みたいな三人称になっている)


話がそれたが、
すべての発言は行動である。

逆に、行動でない台詞は、一言も言ってはならない。(極論)


男は自分の気持ちを表明するのが下手だったり、
ただ黙っているのは、
発言は行動だと思い込んでいる可能性も、なくはない。
とくに用事はないのだが話すことは、
行動ではないからだ。

男はより三人称の世界に生きていて、
女はより一人称の世界に生きている、
というのはまた差別的発言かもしれない。
まあ女は後ろ見ないで運転するからな。まじで。
逆に男は前も後ろも横も同時に見ながら運転している。


逸れた話をまたもどす。


ということで、「と思う」は、
ストーリーではないのだ。

もちろん、
あなたがストーリーを構築していくうえで、
色々なことを思うのは勝手だし、
色んな登場人物がこの時こういうことを思っていた、
を作ることは、ストーリーの動線を作ることに、
不可欠な要素だ。

しかしそれは、シナリオでは間接的にしか見えない、
ということを自覚しよう。

ああでもないこうでもないと思うシーンは、
映画には不必要で、切ることができるし、切るべきである。


学生の自主映画ほど、
主人公が思い悩んだり、
ボイスオーバーで何かを語ったりするシーンが多い。

それは、
「こうして悩む私を分かってほしい」とか、
「悩む俺かっこいい」とか、
普段から思い悩んでいることが多い人生の反映、
という理由はあるが、
「それはストーリーではない」
ということを、
根本的に理解していないと断ずるべきである。
一言で言うと、「おまえへたくそや」ということだ。



ストーリーは前に進むことで何かを表現する。

とぐろを巻き、停滞しているのは、
それに対して欠点であり、欠陥である。


もし、「と思う」を沢山書きたければ、
それはシナリオのジャンルではない、と知ることだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。