小説においては、巧みな内面描写が主題だったりするときがある。
あるいは、Twitterや日記はお気持ち表明の場だったりする。
人は自分がどう思ったか、感じたかについて敏感だ。
他人のそれについてもだ。
それは生活の大半を占めるかもしれない。
しかしそれはストーリーではない。
ストーリーが動くのは、行動したときだ。
逆に、行動しないと、
それは動かないストーリーである。
思ったり、考えたり、感じたり、悩んだり、
ああそうかと思ったり、いやそうでもないかと思ったりすることは、
ストーリーではない。
それは動かない、停滞したストーリーである。
ストーリーとは、「事態の動き」であることに注意されたい。
いや、人間の中にこそ、煩悶の嵐があり、
それを私は描きたいのだ、
という場合は、映画シナリオは向いていないだろう。
小説が向いていると思う。
小説におけるストーリーの定義はここではしない。
ここは脚本論なので、
映画でできるストーリーの表現形態について考えている。
人は小説や現実の人生や映画を並行的に見ているので、
映画シナリオ特有の形式や、
その他特有の形式の違いにまで、
なかなか踏み入って考えられないかもしれない。
ここで扱うのは、あくまで映画シナリオでのストーリーである。
普段からあなたは悩んだり考えたりしていて、
それをシナリオに反映させられないか、
などと思っているのなら、シナリオは辞めなさい。
別のメディアでやるべきだ。
映画シナリオにおけるストーリーは、
行動を一単位として記述されるからだ。
行動は、動詞で記述される。
自動詞か他動詞かは置いといて、
動詞の数が1ページあたりどれくらいあるかで、
ストーリーのテンポは決まる。
数えたことはないが、
1動詞/1ページのシナリオはとてもゆっくりで、
10動詞/1ページのシナリオは怒涛の展開で、
0.3動詞/1ページのシナリオは、たるいだろう。
「言う」は行動だろうか?
そのことによって、他の人が変化したり行動すれば、
それは行動になるだろう。
挑発は行動だ。
扇動も行動だ。
告白も、相手が変化したり行動すれば、行動になるだろう。
宣言も、以後相手の態度や行動に規制が加わったり変化すれば、行動だ。
禁止を口頭で伝えても、それは行動だろう。
今書いてて分かったのだが、
行動にあたる「言う」は、他の言葉、
挑発する、扇動する、禁止する、などのように、
別の動詞で書き換えることができる。
そのような「言う」は行動である。
「思う」は行動ではない。
そのことによって何も起こらないからだ。
「思う」ことで、他の人が変化したり行動すれば行動にあたるが、
それは超能力者でしかない。
思うだけで岩が動くとか、
思うだけで人が破裂するとかならば、
思うことは行動だ。
これも、岩を動かすとか、人を破裂させる、
などのように、別の動詞で書き換えることができる。
そのような場合は、特例で「思う」は行動だ。
なぜ「思う」がストーリーにならないかというと、
人の心の中は三人称形式では見えないからである。
心の中をそのまま見せることはできない。
一方現実世界では、
私は常に思うことがあるし、他人も色んなことを思っている。
ただそれは外には出てこない。
つまり、人の見ている主観世界は、
私の中の一人称+他人の三人称の世界である。
映画シナリオで表現できるのは、
他人の三人称の世界のみである。
例外的に、
ボイスオーバーでその人の心の声を重ねたり、
ナレーターが解説したり、
「私はいま○○○のように思っている」
と突然演劇調で話し出したり、
ペットや岩などに話しかけたりすることで、
表現することは、出来ないではない。
しかしそれはとても不自然な表現法で、
リアルではない。
つまり、リアリティを重んじるタイプのシナリオでは、
初手から「と思う」は封じられているのだ。
じゃあ、思ったことはどのようにわかるのか?
行動と、台詞しかない。
このうち行動は説明なく察することができるレベルだ。
悲しむ人の隣に座ることは、
「その人を慰めようとしている」と、
我々が察することで理解する。
その人を殴ることは、怒っていると察する。
最後までいなくて途中で帰ることは、
怒っているとか抗議していると察するわけだ。
また、他人に言う台詞で、
自分の思ったことを表現することは可能だ。
ただし、
「自分の思うことを開陳して、
どうしたいのか?」までないと、
それは行動ではないので、
「ただ私はこう思った」と言われても、
それは台詞ではない。
いや、だから、どないせえっちゅうねん、
と全員が思う。
台詞は行動である。
ある動詞の形式になる場合は行動である。
そう思ったことは、
言外にたとえば禁止や要求がない限り、行動ではない。
逆に、
思ったことを開陳することは、
通常禁止や要求に値する。
「この部屋暑いね」は、
「クーラーをつけろ(つける行動をせよ)」
という意味だ。
女さんのいうところの、「暑いね」「その気持ちわかる」
で終わりの、お気持ち表明は、
ストーリーでも行動でもなんでもない。
だから、三人称形式では、
「共感する」は行動ではない。
ここが、映画形式が女さんに向いてない、
決定的な部分ではないかと僕は考えている。
(逆に少女漫画においては、
お気持ち表明であるところの、ボイスオーバーがとても豊かで、
一人称表現が三人称表現より多かったりするところがある。
そしてその実写化では、豊かなる一人称表現が抜け落ちて、
抜け殻みたいな三人称になっている)
話がそれたが、
すべての発言は行動である。
逆に、行動でない台詞は、一言も言ってはならない。(極論)
男は自分の気持ちを表明するのが下手だったり、
ただ黙っているのは、
発言は行動だと思い込んでいる可能性も、なくはない。
とくに用事はないのだが話すことは、
行動ではないからだ。
男はより三人称の世界に生きていて、
女はより一人称の世界に生きている、
というのはまた差別的発言かもしれない。
まあ女は後ろ見ないで運転するからな。まじで。
逆に男は前も後ろも横も同時に見ながら運転している。
逸れた話をまたもどす。
ということで、「と思う」は、
ストーリーではないのだ。
もちろん、
あなたがストーリーを構築していくうえで、
色々なことを思うのは勝手だし、
色んな登場人物がこの時こういうことを思っていた、
を作ることは、ストーリーの動線を作ることに、
不可欠な要素だ。
しかしそれは、シナリオでは間接的にしか見えない、
ということを自覚しよう。
ああでもないこうでもないと思うシーンは、
映画には不必要で、切ることができるし、切るべきである。
学生の自主映画ほど、
主人公が思い悩んだり、
ボイスオーバーで何かを語ったりするシーンが多い。
それは、
「こうして悩む私を分かってほしい」とか、
「悩む俺かっこいい」とか、
普段から思い悩んでいることが多い人生の反映、
という理由はあるが、
「それはストーリーではない」
ということを、
根本的に理解していないと断ずるべきである。
一言で言うと、「おまえへたくそや」ということだ。
ストーリーは前に進むことで何かを表現する。
とぐろを巻き、停滞しているのは、
それに対して欠点であり、欠陥である。
もし、「と思う」を沢山書きたければ、
それはシナリオのジャンルではない、と知ることだ。
2020年09月26日
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