およそ人が作ったものならば、
そのような工夫が凝らされていることが想像される。
逆に、そうなっていないものは、完成度が低い、
雑なものである。
脚本というものは、そのような技巧が期待されている。
適当に思いつきをつないだ、
大体のものだとは思われていなくて、
あらゆるディテールが最終的にはひとつの秩序をなすような、
計算され尽くした、隙のないものであると。
しかし実際の脚本というものは、
書き直し書き直してつぎはぎだらけになっていたり、
どうしても思いつかなかったから、
適当につないどこ、などとなっている部分があったり、
あとで使おうと思ったが放置されているものが残っていたり、
使えばそれは伏線足りえるものなのに、
気づかずに放置されているものが残っていたりする。
つまりは、期待に反して、まったく完全体ではないことが、
とても多い。
脚本は建築に例えられることが多い。
すべて計算ずくで、
完全に機能するということで、似たものだと思われているわけだ。
しかしへたくそな脚本だと、
開かずの部屋が存在したり、
渡り廊下の先に何もなかったり、
二階の上に四階が来ていたりするわけだ。
しかしへたくそな脚本だと人は判断せず、
完璧につくられたものであろうと思うゆえに、
このおかしなところにも意味があるに違いない、
などと解釈を止めないことが、まれによくある。
それは破綻に過ぎない、と僕が指摘してもいいけど、
いちいちそれらをチェックするのが面倒だから、
時々に出会ったものに関しては書いたりすることもあるが。
それが完璧ではない脚本だと、
本人だけが分っていなかったりすることもある。
これが厄介だ。
そうなっていることは、あとあと鏡を見て認識するまで分らないことも、
とても多い。
一人でやっているときすらそんなことがよく起こるのだ。
複数でやっているときにそれが起こると、
目も当てられない。
それはおかしいのだ、
それは使っていないぞ、
そうだとしたら、全体をこう整理するべきである、
などと客観的に判断する役は、
本来プロデューサーだが、
それを見失っている人もとても多いと思う。
脚本家と監督は前のめりになりがちで、
全体を見ていないことが多いと思う。
だから、自分自身がそのようなことを意識しないと、
その建築物はそのままにしかならない、
ということだ。
だれかが指摘してくれればラッキー、程度に考え、
それは美しい構造になっているかを、
常々チェックしていくべきだろう。
増築した建築物は、
そこが弱くなっていることがよくある。
脚本も、当初の計画でないところが、
破綻している可能性が高い。
それを指摘できるようになるには経験がいるけど、
「なんかこのへんが変だ」という感覚はいつも磨いておこう。
なぜなら、
「このへんがおかしいと思うんですが、
一回読んでみてください」と、
まったく知らない脚本家や信頼できる人に、
指摘してもらう依頼ができるからである。
何かおかしいという感覚は大事だ。
その改稿が正しくそれをなしたかどうかは置いといて、
すべての注意が、すべての構造にかかわっている、
ということだけは分っておくべきだ。
2020年10月02日
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