2020年10月02日

全てがつながること

およそ人が作ったものならば、
そのような工夫が凝らされていることが想像される。
逆に、そうなっていないものは、完成度が低い、
雑なものである。


脚本というものは、そのような技巧が期待されている。

適当に思いつきをつないだ、
大体のものだとは思われていなくて、
あらゆるディテールが最終的にはひとつの秩序をなすような、
計算され尽くした、隙のないものであると。

しかし実際の脚本というものは、
書き直し書き直してつぎはぎだらけになっていたり、
どうしても思いつかなかったから、
適当につないどこ、などとなっている部分があったり、
あとで使おうと思ったが放置されているものが残っていたり、
使えばそれは伏線足りえるものなのに、
気づかずに放置されているものが残っていたりする。

つまりは、期待に反して、まったく完全体ではないことが、
とても多い。

脚本は建築に例えられることが多い。
すべて計算ずくで、
完全に機能するということで、似たものだと思われているわけだ。

しかしへたくそな脚本だと、
開かずの部屋が存在したり、
渡り廊下の先に何もなかったり、
二階の上に四階が来ていたりするわけだ。

しかしへたくそな脚本だと人は判断せず、
完璧につくられたものであろうと思うゆえに、
このおかしなところにも意味があるに違いない、
などと解釈を止めないことが、まれによくある。

それは破綻に過ぎない、と僕が指摘してもいいけど、
いちいちそれらをチェックするのが面倒だから、
時々に出会ったものに関しては書いたりすることもあるが。


それが完璧ではない脚本だと、
本人だけが分っていなかったりすることもある。
これが厄介だ。
そうなっていることは、あとあと鏡を見て認識するまで分らないことも、
とても多い。


一人でやっているときすらそんなことがよく起こるのだ。
複数でやっているときにそれが起こると、
目も当てられない。

それはおかしいのだ、
それは使っていないぞ、
そうだとしたら、全体をこう整理するべきである、
などと客観的に判断する役は、
本来プロデューサーだが、
それを見失っている人もとても多いと思う。
脚本家と監督は前のめりになりがちで、
全体を見ていないことが多いと思う。

だから、自分自身がそのようなことを意識しないと、
その建築物はそのままにしかならない、
ということだ。

だれかが指摘してくれればラッキー、程度に考え、
それは美しい構造になっているかを、
常々チェックしていくべきだろう。

増築した建築物は、
そこが弱くなっていることがよくある。
脚本も、当初の計画でないところが、
破綻している可能性が高い。

それを指摘できるようになるには経験がいるけど、
「なんかこのへんが変だ」という感覚はいつも磨いておこう。
なぜなら、
「このへんがおかしいと思うんですが、
一回読んでみてください」と、
まったく知らない脚本家や信頼できる人に、
指摘してもらう依頼ができるからである。

何かおかしいという感覚は大事だ。
その改稿が正しくそれをなしたかどうかは置いといて、
すべての注意が、すべての構造にかかわっている、
ということだけは分っておくべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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