2020年09月19日

文章芸者の羊頭狗肉(小説「金閣寺」評)

故あって三島由紀夫「潮騒」を読んだ。
あんまり大したことねえなと思っていたら、
「三島文学の最高峰は『金閣寺』である」というのを見て、読破した。

で、記事タイトルの結論を得た。
すごい文章力で、うまい日本語だというのは揺るぎない。
しかしそれはあくまでガワの話で、
それを全部取っ払ったら、中身はシオシオのちっぽけなものでしかなかった。

小説はガワも含んだ芸術なのである、ならば三島の文学性は揺るがないかもしれない。
だがしかし。
以下ネタバレ含む。


実のところ、
僕はいったいどういう話かも知らずに読み始めた。
金閣寺への偏執的な思いから、
1/3くらいのあたりで、
これ金閣寺を燃やしたりするんじゃないか、
などと予感した。

半分あたりで後ろのあらすじを見てしまい、
なんだ、放火魔の独白という大枠なのかと、
理解した。

となると、
これだけの情報量を持つ彼の内面の描写は、
ひょっとしたらガワなんじゃないか、
と疑ったのだ。


要するにこれは、
「放火魔が火をつけるまでの経緯を、
なるべく贅沢に三島タッチで面白おかしく、
どれだけうまく描けるか」合戦に、
参加したような作品ではないか、
と思ったのだ。

彼の内面の描写をよく読むと、
Aだと思うとA-でもあるようにも思えたとか、
AとA-が同時に想起されるのであるとか、
「どっちやねん」と思われるものがよく出てくる。

それは複雑な人間のアンビバレンツな思いなのだ、
という顔をした、僕はケムに巻く作戦だと感じた。

要するに、複雑な軸をたくさん並べておけば、
「国宝への放火の罪に値する、
内面の複雑さを表現しているのだ」
とうそぶけるからである。

なぜ火をつけたのか?という単純な問いに、
「一言で答えられないくらい、
人間というのは複雑なのだ。
それを本一冊使って語ろう」
という構造になっていると感じた。

そしてそれは、わざと完全に理解できないように書いてある、
と僕は思った。
AとA-をわざと対置させて、矛盾を作っていることが多かったからだ。
その矛盾を持って放火したわけではないだろう。

なぜ火をつけたのか?という明快な問いには、
○○○だから、という明快な答えが期待される。
しかしここをあやふやにすることによって、
わざと難解にした形跡があると僕は思う。

度重なる金閣寺との会話において、
それは濃密な矛盾を描いているだけだと僕は読んだ。


仏教用語の散りばめも、そのガワの誤魔化しのひとつだ。
注釈多すぎ。
僕は途中から仏教用語の注釈は全無視して、
当時の風俗で知らないことだけ注釈を読んだ。
そうすると、
仏教用語をとくに知らなくても、
それはガワの模様程度に過ぎないことがわかってくる。
それがそれでなくても成立するように文章が組んであると感じた。

臨済宗の話が多かったのはたまたま鹿苑寺がそうだからで、
臨済宗独特の仏教観は、ストーリーになんら影響を与えていない。

猫を切って頭に靴を乗せた、例の公案がとくにそうだ。
公案とは、
「意味がわからず答えがないことを考えさせることで、
頭を空っぽにするための方便」
であることさえ知っていれば、
猫と靴の公案は、実は惑わせるためだけの小道具だとわかる。

あれに意味はない。
ただ仏教は深いと思わせるガワなのだ。


仏教用語と同じくらい、花や植物の名前も細かかった。
これもガワのディテールをよく補強していると思う。


フリークス要素もすべてそうだと思う。
どもり、内翻足、その他もろもろ、
全て「人は複雑である」のための小道具だ。
母親の浮気、鶴川の死、用意された女と交われなかった不幸、
など、傷つく場面は同情のためではなく、
それっぽいガワのためだ。

特に三島は鮮烈で変わった、絵的なシチュエーションを作るのがうまい。

自転車の有為子を朝待ち伏せした場面、
神社に隠れている脱走兵へ導く場面、
山門から見た乳房を湯呑みに入れて乳を飲ませる場面、
内翻足とのピクニック、
鶴川の突然の死、鶴川が出していた手紙たち。
日本海まで一人旅に出た場面、
何も得られなかった買春、
などなど、
どれも素晴らしく脳内に浮かぶ。

しかしそれらは、
「珍奇なガワ」に過ぎない。
オリジナリティがあり、どれも絵になるが、
「それが何を意味したか」という、
中身がほとんどないことに気づく。

僕は普段脚本をやってきたから、
ガワに気を取られず中身だけを扱ってきた。

三島はガワの達人だ。
中身がほとんどないのに、
ガワだけで何百ページも埋める力量がある。



さて、
ではなぜ主人公は金閣寺に火をつけたのか?

中身だけを考えると、
「父親への反抗期」だと僕は考える。
父親と言っても実の父は死んだし、
老主は父ではないから、
「父的なものへの反抗期」と考えると、
すべては符合する。

父が美しいと言った金閣寺。
母を寝取られたみっともない父。
咳をする弱った父。
祇園の芸者に入れ込む老主。
偉大なる男ではなくみっともなく恫喝した老主。
芸者の写真を黙って返したこと。
出奔し、しかも学費を買春に使い込むこと。

すべては、「父なるもの」への反抗期でしかないと僕は思った。

金閣寺はその象徴であり、
それを焼くことは、ここに自分がいると自立を叫ぶ心の現れだと思った。
ラストシーン、煙草を吸うのも、
高校生が不良のフリをして煙草を吸う心理と、
まったく同じだと思った。

つまり主人公は反抗期だった。
いっぱしの大人に認められたくて、
大人の象徴を全部否定してかかった。

ただそれだけの中身のために、
壮大なるガワ、絢爛豪華なる文章表現でごまかし切った。

僕は「金閣寺」を、そのような小説だと断ずる。



三島は文章は抜群にうまい。
うまいだけに、何を書くか困ってしまったのではないか?
すごい絵がうまいのに、
オリジナルを描かずに好きな漫画やアニメのキャラだけ描いてる絵師と、
同じ感じがした。

だから、
「たかが反抗期の火付けを、
どこまで絢爛豪華文章で、
ガワを盛れるか」
に挑戦したのが、「金閣寺」であるように、
僕には見える。


文章表現は流石の芸術点だけど、
うまいだけで中身は他人のキャラの絵みたいに、
中身の意味は、わりとちっぽけなんじゃないか?

それも小説の一形態である、
ということは言えるかもしれないが、
僕には何も残らない、ただのフリークス小説だったかな。


興味深いことに、
そのガワに目眩しをかけられた人々が、
そのガワの前で立ちすくみ、
なんだかすごいけどわからんと言っている。
https://bookmeter.com/books/578735#js-book-reviews

いかに人は見かけに左右されてしまうか、
を如実に表しているようだ。

それは目眩しだと気付いた人が殆どいないのが、
読解力とはなんだろう、
と少し気分を暗くさせる。


三島の本体はとてもちっぽけなんじゃないか?
僕が知ってる三島はボディビルダーで演説して自決した人で、
小説を初めて読んだのだが。
ボディビルダーやったり刀もったりする人は、
精神的に弱いからそれに頼っているのだろうと、
今ならよくわかる。
posted by おおおかとしひこ at 23:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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