2020年09月20日

何を描くかと、どう描くか

前者は脚本、後者は演出。

小説にたとえると、
前者がプロット、後者が描写や文体。
音楽にたとえると、
前者が楽譜、後者が演奏。
ミステリーにたとえると、
前者が殺人事件(トリックや動機)、後者がキャラや文体。
絵にたとえると、
前者は描かれたもの、後者は構図や色やタッチ。


僕が三島を読むきっかけは、
そのガワが気になったからだ。
このガワを持ってして、いかなる中身を描いているのか、
ということが大変気になったのだ。

映画で言えば、
特異なトーンを持った監督が気になった、
というところだろう。

たとえばクリストファーノーラン、
デビッドフィンチャー、
いくつかのインド映画(監督の個性なのかインド特有なのか分離不能)、
スタンリーキューブリック、
スティーブンスピルバーグ、
篠田昇が撮っていたころの岩井俊二、
クリストファードイルが撮っていたころのウォンカーワイ、
中島哲也、
古典で言えば黒澤明、小津安二郎。

アニメでいえば宮崎駿、押井守、今敏、湯浅政明、庵野秀明、
漫画でいえば大友克洋、車田正美、鳥山明、井上雄彦、桂正和、原哲夫、ゆでたまご、
高橋陽一、漫画太郎、つげ義春、松本大洋、大暮維人、手塚治虫、藤子不二雄。
イラストレーターでいえば、五月女ケイ子、永野護。


彼らのガワは独特である。
それを作家性という場合もある。
彼らはそのように世界を認識している、
としか言いようのないトーンがある。
「クセが強い」と言われることもある。
「独特の世界観」と言われることもある。

しかし、それはどう描くかという筆、カメラでしかない。
実際には何を描くかが重要だ。


その筆を、カメラを取っ払って、
全部フィックス、全部ワンカットでやったときでも、
面白い中身が、脚本である。

エビフライのエビと衣の関係かもしれない。


実のところ、僕は監督として十分な予算を与えられたことが殆どない。
(一番あったのはクレラップ)
だから独特のトーンを確立する機会がついぞなかった。
だから脚本力で生きてきたような気がする。

風魔は十分な予算がないまま、
脚本力だけで駆け抜けた。
いけちゃんは途中で1億予算を削られて、60%の脚本でなんとかした。

映画のガワは、予算に比例する。
小説のガワは、語彙や美意識や、取材に比例するだろう。
音楽のガワは、才能や楽器に比例するのかしら。
絵のガワは、画材に比例する。
(絵具の青が買えないなんて貧乏学生の話はよくある)


ガワは、突破力になりえる。
何か独特のガワがあると、記憶されやすく、
気にかけられやすく、呼ばれやすい。
それを武器にすることは否定しない。

だけどバッターボックスに立った後は、
中身がものをいうことだけは、
覚えておくといい。


何を描くか、どう描くか。

すべての芸術はこのように分解できると思う。
脚本はそのうち、
前者を100%扱う媒体である。

独特の文体はそれでも作れるかもだけど、
基本中身を問うものだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:34| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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