前者は脚本、後者は演出。
小説にたとえると、
前者がプロット、後者が描写や文体。
音楽にたとえると、
前者が楽譜、後者が演奏。
ミステリーにたとえると、
前者が殺人事件(トリックや動機)、後者がキャラや文体。
絵にたとえると、
前者は描かれたもの、後者は構図や色やタッチ。
僕が三島を読むきっかけは、
そのガワが気になったからだ。
このガワを持ってして、いかなる中身を描いているのか、
ということが大変気になったのだ。
映画で言えば、
特異なトーンを持った監督が気になった、
というところだろう。
たとえばクリストファーノーラン、
デビッドフィンチャー、
いくつかのインド映画(監督の個性なのかインド特有なのか分離不能)、
スタンリーキューブリック、
スティーブンスピルバーグ、
篠田昇が撮っていたころの岩井俊二、
クリストファードイルが撮っていたころのウォンカーワイ、
中島哲也、
古典で言えば黒澤明、小津安二郎。
アニメでいえば宮崎駿、押井守、今敏、湯浅政明、庵野秀明、
漫画でいえば大友克洋、車田正美、鳥山明、井上雄彦、桂正和、原哲夫、ゆでたまご、
高橋陽一、漫画太郎、つげ義春、松本大洋、大暮維人、手塚治虫、藤子不二雄。
イラストレーターでいえば、五月女ケイ子、永野護。
彼らのガワは独特である。
それを作家性という場合もある。
彼らはそのように世界を認識している、
としか言いようのないトーンがある。
「クセが強い」と言われることもある。
「独特の世界観」と言われることもある。
しかし、それはどう描くかという筆、カメラでしかない。
実際には何を描くかが重要だ。
その筆を、カメラを取っ払って、
全部フィックス、全部ワンカットでやったときでも、
面白い中身が、脚本である。
エビフライのエビと衣の関係かもしれない。
実のところ、僕は監督として十分な予算を与えられたことが殆どない。
(一番あったのはクレラップ)
だから独特のトーンを確立する機会がついぞなかった。
だから脚本力で生きてきたような気がする。
風魔は十分な予算がないまま、
脚本力だけで駆け抜けた。
いけちゃんは途中で1億予算を削られて、60%の脚本でなんとかした。
映画のガワは、予算に比例する。
小説のガワは、語彙や美意識や、取材に比例するだろう。
音楽のガワは、才能や楽器に比例するのかしら。
絵のガワは、画材に比例する。
(絵具の青が買えないなんて貧乏学生の話はよくある)
ガワは、突破力になりえる。
何か独特のガワがあると、記憶されやすく、
気にかけられやすく、呼ばれやすい。
それを武器にすることは否定しない。
だけどバッターボックスに立った後は、
中身がものをいうことだけは、
覚えておくといい。
何を描くか、どう描くか。
すべての芸術はこのように分解できると思う。
脚本はそのうち、
前者を100%扱う媒体である。
独特の文体はそれでも作れるかもだけど、
基本中身を問うものだ。
2020年09月20日
この記事へのコメント
コメントを書く