毎回思うことだけど、
新しいものをつくるときに、
なるべくハイコンテクストにしないことだ。
ハイコンテクストというのは、
「あれのあれを分っていないと分らない」というやつである。
いくつかの文化的慣習だけではなく、
以前の作品の何かを引用したり前提にしているとか、
そういうことだ。
それは、前のそれを知っている人にとっては面白いし、
それらを発展させたようになっていれば、
もっと面白いことだろう。
しかしそれはシリーズでやるべきだ。
それを前提にそれを楽しませてはならない。
作品というのは、それだけで完結すること、
自立することが望ましい。
よく作者の言葉で、
「あれの世界とこれの世界は繋がっています」
なんてやつがあるけど、
それは作品にプラスにはなっていない。
むしろ、僕はダメージになっていると思う。
ファンにはうれしいかもしれないが、
そんなのファン以外にとってはどうでもいいからだ。
そして、ファン以外の人のほうがいつも多いということは、わかっておくといいと思う。
つねに、更地に書くようにせよ。
はじめてその世界に触れる人が、
何も前準備がいらないようにせよ。
たとえばスキーが廃れたのは、
金がかかることもあるけど、
道具や前準備が多かったからではないかと思う。
はじめてそれに触れる人が、
やりにくかったからではないかと。
分っている人が多ければ問題はなかったが、
人口が減って来たら、初見者が寄り付かなくなったということだ。
雪国の人はそりゃあ詳しいかもしれないが、
雪が降らない国の人にも、
それがわかるようになっていれば、
スキーはもっと面白くなり、また流行ると思うよ。
それが巧みなのが映画「ハスラー」であることは、
以前にも書いた。
実のところビリヤードのルールは何一つ分らなくてもよくて、
賭け試合にのみ成立するだます方法がわかればいいから、
初見でも分りやすかったのが、成功の要因の一つだ。
別にスポーツに限らない。
政治だって経済だって時代劇だって同じだ。
専門家は専門知識でマウントを取りたがるが、
そんなものストーリーにはいらないのだ。
全ての人が、更地から体験できるもの。
それがもっとも喜ばれる。
前準備を用意しているようなものは、
娯楽とは呼べない。
プラグアンドプレイ、玄関開けたら二分でごはんがベストだ。
そうなるには、上手に設定をしなければならない。
たったひとつだけ分っていればいいものだけを説明して、
更地に、面白い展開を描けばいいのである。
最初が面白ければ、
あとで説明してもついてくる。
まずは最初で更地にうまく巻き込めるか、
それだけを考えるとよいだろう。
説明や設定をあとでも出来る、と思えば、
最小限のセットの候補はつくることが出来るだろう。
更地へ連れて行こう。
色々やって、途中で説明も加えて、
充分に楽しもう。
そしてあとに何も残らぬほどに、
全てを使いつくしたら、
更地に戻るくらいに伏線を全部解消しよう。
もとのなんにもない更地に戻るのが、
理想である。
そのとき、その思い出だけが残るわけだから。
更地を見つけた好奇心、
更地で工夫した記憶、
もとの更地に戻ってしまった満足感。
その記憶だけが、作品という記憶だ。
何か必要だったり、
あとに残尿が残るのは、
更地に劣るのである。
2020年09月30日
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