2020年09月30日

いつも更地につくるように

毎回思うことだけど、
新しいものをつくるときに、
なるべくハイコンテクストにしないことだ。


ハイコンテクストというのは、
「あれのあれを分っていないと分らない」というやつである。

いくつかの文化的慣習だけではなく、
以前の作品の何かを引用したり前提にしているとか、
そういうことだ。
それは、前のそれを知っている人にとっては面白いし、
それらを発展させたようになっていれば、
もっと面白いことだろう。
しかしそれはシリーズでやるべきだ。
それを前提にそれを楽しませてはならない。

作品というのは、それだけで完結すること、
自立することが望ましい。


よく作者の言葉で、
「あれの世界とこれの世界は繋がっています」
なんてやつがあるけど、
それは作品にプラスにはなっていない。
むしろ、僕はダメージになっていると思う。
ファンにはうれしいかもしれないが、
そんなのファン以外にとってはどうでもいいからだ。
そして、ファン以外の人のほうがいつも多いということは、わかっておくといいと思う。

つねに、更地に書くようにせよ。
はじめてその世界に触れる人が、
何も前準備がいらないようにせよ。


たとえばスキーが廃れたのは、
金がかかることもあるけど、
道具や前準備が多かったからではないかと思う。
はじめてそれに触れる人が、
やりにくかったからではないかと。
分っている人が多ければ問題はなかったが、
人口が減って来たら、初見者が寄り付かなくなったということだ。

雪国の人はそりゃあ詳しいかもしれないが、
雪が降らない国の人にも、
それがわかるようになっていれば、
スキーはもっと面白くなり、また流行ると思うよ。

それが巧みなのが映画「ハスラー」であることは、
以前にも書いた。

実のところビリヤードのルールは何一つ分らなくてもよくて、
賭け試合にのみ成立するだます方法がわかればいいから、
初見でも分りやすかったのが、成功の要因の一つだ。


別にスポーツに限らない。
政治だって経済だって時代劇だって同じだ。
専門家は専門知識でマウントを取りたがるが、
そんなものストーリーにはいらないのだ。

全ての人が、更地から体験できるもの。
それがもっとも喜ばれる。

前準備を用意しているようなものは、
娯楽とは呼べない。
プラグアンドプレイ、玄関開けたら二分でごはんがベストだ。


そうなるには、上手に設定をしなければならない。

たったひとつだけ分っていればいいものだけを説明して、
更地に、面白い展開を描けばいいのである。

最初が面白ければ、
あとで説明してもついてくる。
まずは最初で更地にうまく巻き込めるか、
それだけを考えるとよいだろう。
説明や設定をあとでも出来る、と思えば、
最小限のセットの候補はつくることが出来るだろう。


更地へ連れて行こう。
色々やって、途中で説明も加えて、
充分に楽しもう。
そしてあとに何も残らぬほどに、
全てを使いつくしたら、
更地に戻るくらいに伏線を全部解消しよう。
もとのなんにもない更地に戻るのが、
理想である。
そのとき、その思い出だけが残るわけだから。

更地を見つけた好奇心、
更地で工夫した記憶、
もとの更地に戻ってしまった満足感。
その記憶だけが、作品という記憶だ。

何か必要だったり、
あとに残尿が残るのは、
更地に劣るのである。
posted by おおおかとしひこ at 00:51| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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