誰もが、自分が努力せずにいい目に遭ったらいいなあ、
と思っている。
一方現実では、そんなものは天文学的確率である。ていうか0前提で生きないといけない。
この差をどう埋めるか?
僕は、それは作者がマスコミニケーションをどう考えているか、
と関係していると思う。
誰もがのび太症候群がある。
これを自分で気づかずに作者が描いてしまうのがメアリースーだ。
一方受け手側にものび太症候群がある。
露骨にそれを刺激して儲けたろ、
としたのがラノベの多くの作品群である。
ご都合主義、なぜか主人公がハーレムに、
チート能力、自分最強願望、自己承認欲求を満たすなにか。
僕はこれらは、麻薬のようなものであると思っている。
現実に目を向けさせず、堕落させるものであると。
努力の価値を教えず、
努力しなかったら堕落することを教えず、
君はそのままの君でいいんだよと甘えさせ、
向上心や好奇心を失わせ、
恐怖心を克己させず、
予測や経験や熟考や勇気や、
コミュニケーション能力や交渉能力を失わせると考えている。
それらは、現実社会に揉まれて獲得すべきものである。
しかし人は模倣によっても学べるから、
メディアに出る姿からも学ぶ。
つまり、メアリースーがメディアに溢れるならば、
メアリースーだらけになるということだ。
僕は70年代くらいの根性努力主義から、
漫画やアニメや特撮やドラマや映画を見始めた。
子供の見るものは、道徳的であるべき、
とされていて、
社会のしくみをうまく小さくして、
無意識に、現実とはこういうものだ、を学べるようになっていた。
「役に立つ物語」とはそういうものだと言われた。
80年代バブルになり、
欲望をそのまま発露するものが増えた。
眉をしかめる大人たちと、
イケイケドンドンなんだから世界は明るくなるべきだという若者たちが増えた。
90年代それは爛熟し、
全員が楽しむまるいものと、ニッチで尖ったものとが共存した。
00年代、バブル崩壊やリーマンショックで、
出せば売れる時代はとっくに終わり、
低迷が始まったと思う。
10年代、何をやっても売れない時代になった。
近年の物語は、
メアリースーを入れれば売れることを知ってしまった。
生き残るために売る、という方法論がまかり通るようになった。
70年代ならば、皆に後ろ指をさされただろう。
志がないと。
メアリースーを、意図的に入れるやり方がある。
売れると分かっているからである。
ラッキースケベは儲かるのだ。
現在物語には4種類ある。
メアリースーを排除した、強い物語、
それを目指して、無意識にメアリースーが混入したもの、
意図的にメアリースーを入れた、弱い物語、
そして、
メアリースーが物語だと思っている作者が、
メアリースーが物語だと思っている観客に受けているもの、
だ。
最後のタイプは、
ラノベで育った人が描く漫画などだ。
現実の反映ではなく、なにかのメディアの経験をなにかのメディアに転換したものだ。
(ラノベはもともと漫画やゲームの体験を小説にしたものだ)
昔の編集者ならば、甘えとる、却下、となり、
少し前の編集者ならば、受けるのは分かってるんだけどさ、
と苦い顔で、全体の売り上げを上げるための必要悪と割り切り、
今の編集者ならば、これ好き、という人と嫌い、という人に別れるだけかも知れない。
で、ここからが本題。
メアリースーで育つ人が、かつてより増えたということ。
彼らは基本甘えている。
傷つきやすく、克己や努力をせず、誰かにしてもらうことしか知らず、
戦うことや回復することや協力し合うことを知らない。
現実でも知らないし、そうした作品も見てこなかった。
だから、日本は衰退している、
と考えるのは早計だろうか?
かつて漫画が日本をダメにするとか、
ゲームが日本をダメにするとか、
そのような議論が活発に行われた。
没入しすぎて現実との乖離についていけなくなる、
という恐れからだった。
いまはそんな議論すら聞かれない。
乖離が蔓延してしまったからだと僕は思っている。
現実世界でのその人と、
ネット世界でのその人の乖離は、もはや普通になった。
人は多重人格を使い分ける。
でも使い分けているわけではなく、
単純に繋がっているとぼくは思う。
僕は現実を描くべきだと思う。
ご都合主義やメアリースーは物語の敵だと思う。
それらは麻薬や現実逃避のアルコールと同じだと。
物語は人の役に立つべきだ。
マイナス方向ではなくプラス方向にだ。
それが単なる説教になるならば、プロパガンダと変わらない。
そうではなく、娯楽として成立しなければならない。
娯楽と道徳と現実主義と夢想のバランスが、
取られるべきだと思う。
(すごく簡単なことをいえば、
信賞必罰、人にしたことは帰ってくる、努力は報われる、
などのシンプルな道徳観にまで戻るだろうか)
そんなとてつもなく難しいことを、やるべきだ。
だから作者は、いい仕事をしたかどうかを評価されるのだ。
2020年09月24日
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