もう少しリアリティの話を詰めてみる。
同じことが他の人にも起こったらどうなるか?
を考えてみると参考になる。
(日本人は周りを見て反応を決めることがよくあるからね)
それは特別なことなのか?
それは普通にあることなのか?
他人もそうだと聞いたことなのか?
その世界にとっては常識で、そういう反応をするのは普通なのか?
対処の仕方は知られているのか?
それとも慣れてる人と慣れてない人の差があるのか?
あるのだとすると何で決まるのか?
などを考えていくのだ。
つまり、
それが起こったとき、
人々はどう反応するか?
人々はどう対処するか?
すなわち、
「その世界ではそれはどう扱われるか?」
を考えると良い。
「その世界の、その時代での普通」を考えるのである。
アイドルがしょっちゅう転校してくる、
単位制の高校では、
主人公はドギマギするだろうか?
みんなはどうか?
を考える。
「どんな可愛い子でもイケメン軍団が囲むので、
フツメンは結局見てるだけ」
「イケメン軍団に二週間もすればやられてしまう」
ことがわかっているため、
「可愛いアイドルが転校して来ても、
ときめくだけ損する」
ことを知っている、
というのが大方の反応ではないか?
「むしろ女子がマウント合戦するから、
派閥争いが起こり、面倒なことが起きる予感」
があって、
主人公はそれとなくその派閥から彼女を守るのだろうか?
それとも、それすら良くあることだとわかっているから、
女子派閥警察みたいなのがすでにいて、
イケメン軍団と通じ合っていて、
その軍団に入れられる(昔の沢尻会みたいなやつ)、
というのが大方の流れになっているのでは?
これがリアリティというものだ。
「アイドルが転校してくる高校で、
みんなの、構成員社会の反応として、普通なこと」
を考えるのである。
となると、アイドルが転校してくることは、
社会にとって「事件」ではなく「日常」に過ぎない。
それが日常である社会の、
ルーチンワークを想像する。
物語とは、そのルーチンワークが破れることではじまる。
フツメンがアイドルに話しかけ、
ラインを聞くのはご法度である世界だろう。
それが、「なぜか今回の彼女だけ、
フツメンの自分に話しかけて、ラインを聞いてくる」
という、「掟破り」の場面が、
物語になるはずだ。
つまり、「アイドルが転校してくる」が事件ではなく、
「アイドルが転校してくる高校での、当たり前ではないことが起こる」
が事件であるべきなのだ。
「まずそんなことないやろ」という、
リアリティ破りが発端になることに注意されたい。
どんなリアリティを追求したとして、
「掟破り」が物語のスタートである以上、
リアリティは常に破れるのだ。
で、どこがリアリティがあるかというと、
「その彼女がフツメンの主人公に話しかけた理由」や、
「みんなにバレないようにする手口」などの、
「その世界でも、我々の世界でもあり得るリアリティ」が、
その事件にリアリティを感じさせるはずである。
ということは、
高校生活のリアリティがあればよく、
「アイドルが転校してくる高校のリアリティ」は、
「世界設定のリアリティ」には役に立つものの、
「物語のリアリティ」とは関係がないことがわかる。
そして、世界設定のリアリティを知っていれば知っているほど、
「そんな事件起こらんがな」
と、物語を諦めてしまう可能性が高い。
物語とは、「そこで起こらなそうなこと」を描くからである。
そこで起こりそうなことは事件とはいわない。日常の範囲だ。
物語とは、滅多にない、
あり得るとは思えなかった、
ある種の奇跡を描くものである。
だから、世界設定のリアルを知っていれば知っているほど、
生々しくは出来るものの、
生々しいがゆえに、跳躍が足りなくなると思う。
「ここでこんなことが起こったら?」という無邪気な夢想を、
「いや、そんなこと聞いたこともないし、リアリティないですね」
と切り捨てることにしか役に立たない。
掟がリアルであることと、
掟破りがリアリティがあることは、
全く別のベクトルなのだ。
世界設定のリアルは、取材で探すものである。
作者にはある夢想がある。
「こんな世界で、こんな事件が起こったら?」
というものだ。
その事件は、リアリティがない方がすっ飛んでいて面白い。
しかしそこにリアリティを出すならば、
「その世界で普通の人がどういう反応をするか?」
を取材で構築していくのだ。
作者は、夢想とその着地について最も詳しいべきで、
世界の反応について詳しいべきではない。
世界の反応は、あとから付け加えていくのだ。
小さな例を。
ドラマ風魔9話の将棋会館の話。
僕は、氷川が対戦を中座し、洗面所で顔を洗わせたかった。
「水が止まる」(屋上で霧風が給水タンクを使っているため)
という場面のためである。
「表で部活の試合、裏では忍びの死合」というコンセプトを、
「水が止まる」という象徴的な絵にするためである。
で、リアリティの構築のために知りたかったことは、
「試合を中座してトイレに行くことはリアルか」だ。
取材により、以下のようなことがわかった。
「持ち時間内なら何をしてもよい」
「わざわざ断らなくてもよい」
「『長考』と言う必要もない」
「立ってうろうろしながら考える人もいる」
「対戦相手や検分人の迷惑にならない程度の常識の範囲で」
(当時はなかったが、現在だと中座はAIカンニングの恐れがあるため、
電子機器の持ち込み禁止の検査があるそうだ)
「廊下を歩いて考えたり、トイレで一人で考えること」
などは、
普通にあるらしい。
その中で、「氷川は律儀なので、中座するときは、
『長考します』とわざわざ一礼する」
という、将棋をしない人にもする人にもわかる、
リアリティを構築したわけである。
たったあのワンカットのために、
ここまで取材し、物語(その世界ではあり得ないこと)が、
成立し得るのかを考えてあるわけだ。
「『長考します』と一礼して中座するのはリアルではない」
という調査担当に対して僕は怒った。
「対戦中トイレに行くときにどうするのがリアルなのか、
動線を考えろ。そしてそれが観客にわかりやすく提示できる、
リアリティの範囲を創作せよ。
重要なのはストーリーで、設定ではない。
ストーリーを成立させるためのリアリティ補強が設定だ」と。
もしあの場面、リアルならば、
ただすっと立つだけだった。
それはリアルかも知れないが、
将棋経験者(少ない)にはリアルでも、
観客にはこれから何が起こるのかまったく分からない。
なぜ中座するのか、中座はルール上OKなのかすら分からない。
そんな両方の人たちに、
「長考のために中座するのはルール上OK」
「氷川は律儀な人」
の二つを伝えることができるのは、
脚本上一行で済むわけだ。
氷川 「…長考します(と一礼して中座する)」
でよいわけだから。
この時「周りの反応」がリアリティだ。
つまり、わざわざ宣言するのはあんまりないことけど、
別に礼儀に反しているわけでもないから、
「軽く会釈する」
ということになったわけだ。
(対戦相手の西脇は自信満々になっている、
というストーリー上のリアクションはある)
このことによって、これは自然に受け止められ、
ストーリーは「あり得ない方向」へ自然に進むことができる。
「将棋会館の屋上で忍びが戦う」のはリアリティではない。
夢想である。
しかしそれが起こると面白いと考えるのが物語である。
それがリアリティを持つのは、
「試合中、長考の為にトイレに籠った氷川が、
頭を冷やす為に顔を洗っている最中、
水が止まる」
という場面で構築されているわけだ。
「そうか、屋上で給水塔の水を大量に使えば、
ビルは断水だ」は、
リアリティがあるからだ。
すなわち、リアリティとは、
その架空世界と、私たちの世界が、
繋がっている感覚のことである。
同様に9話では、
姫子が忍びの殺し合いを、「警察に相談した方が」と、
リアリティ溢れることを言い出す。
私たちの世界での常識を非日常に放り込むことで、
「ああ、異常事態が起こっているんだ」
というリアリティ構築に役に立っているわけだ。
これはボケという異常に対して、
常識を併置することで距離を測定する、
ツッコミの役割を果たしている。
最初の話に戻れば、
「アイドルが転校してくる高校」と、
私たちの世界が繋がっている感覚があれば、
リアリティがあった。
それがなければ、
それが本当に起こったことであろうが、
リアリティはない。
コロンバイン高校乱射事件をもとにした「エレファント」は、
リアルに基づいた映画だけど、
リアリティが全くなかったことと同じである。
リアリティは、
夢想を萎ませる方向に働くべきではない。
夢想を強化する方向に働かせる。
「そんなの、あるわけがない」を、
「それなら、あり得る」に変える。
2020年09月26日
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