2020年09月26日

リアリティの基準

もう少しリアリティの話を詰めてみる。

同じことが他の人にも起こったらどうなるか?
を考えてみると参考になる。
(日本人は周りを見て反応を決めることがよくあるからね)


それは特別なことなのか?
それは普通にあることなのか?
他人もそうだと聞いたことなのか?
その世界にとっては常識で、そういう反応をするのは普通なのか?
対処の仕方は知られているのか?
それとも慣れてる人と慣れてない人の差があるのか?
あるのだとすると何で決まるのか?

などを考えていくのだ。

つまり、
それが起こったとき、
人々はどう反応するか?
人々はどう対処するか?
すなわち、
「その世界ではそれはどう扱われるか?」
を考えると良い。

「その世界の、その時代での普通」を考えるのである。

アイドルがしょっちゅう転校してくる、
単位制の高校では、
主人公はドギマギするだろうか?
みんなはどうか?
を考える。

「どんな可愛い子でもイケメン軍団が囲むので、
フツメンは結局見てるだけ」
「イケメン軍団に二週間もすればやられてしまう」
ことがわかっているため、
「可愛いアイドルが転校して来ても、
ときめくだけ損する」
ことを知っている、
というのが大方の反応ではないか?

「むしろ女子がマウント合戦するから、
派閥争いが起こり、面倒なことが起きる予感」
があって、
主人公はそれとなくその派閥から彼女を守るのだろうか?
それとも、それすら良くあることだとわかっているから、
女子派閥警察みたいなのがすでにいて、
イケメン軍団と通じ合っていて、
その軍団に入れられる(昔の沢尻会みたいなやつ)、
というのが大方の流れになっているのでは?

これがリアリティというものだ。
「アイドルが転校してくる高校で、
みんなの、構成員社会の反応として、普通なこと」
を考えるのである。


となると、アイドルが転校してくることは、
社会にとって「事件」ではなく「日常」に過ぎない。
それが日常である社会の、
ルーチンワークを想像する。

物語とは、そのルーチンワークが破れることではじまる。
フツメンがアイドルに話しかけ、
ラインを聞くのはご法度である世界だろう。
それが、「なぜか今回の彼女だけ、
フツメンの自分に話しかけて、ラインを聞いてくる」
という、「掟破り」の場面が、
物語になるはずだ。

つまり、「アイドルが転校してくる」が事件ではなく、
「アイドルが転校してくる高校での、当たり前ではないことが起こる」
が事件であるべきなのだ。


「まずそんなことないやろ」という、
リアリティ破りが発端になることに注意されたい。

どんなリアリティを追求したとして、
「掟破り」が物語のスタートである以上、
リアリティは常に破れるのだ。

で、どこがリアリティがあるかというと、
「その彼女がフツメンの主人公に話しかけた理由」や、
「みんなにバレないようにする手口」などの、
「その世界でも、我々の世界でもあり得るリアリティ」が、
その事件にリアリティを感じさせるはずである。


ということは、
高校生活のリアリティがあればよく、
「アイドルが転校してくる高校のリアリティ」は、
「世界設定のリアリティ」には役に立つものの、
「物語のリアリティ」とは関係がないことがわかる。

そして、世界設定のリアリティを知っていれば知っているほど、
「そんな事件起こらんがな」
と、物語を諦めてしまう可能性が高い。

物語とは、「そこで起こらなそうなこと」を描くからである。


そこで起こりそうなことは事件とはいわない。日常の範囲だ。
物語とは、滅多にない、
あり得るとは思えなかった、
ある種の奇跡を描くものである。

だから、世界設定のリアルを知っていれば知っているほど、
生々しくは出来るものの、
生々しいがゆえに、跳躍が足りなくなると思う。

「ここでこんなことが起こったら?」という無邪気な夢想を、
「いや、そんなこと聞いたこともないし、リアリティないですね」
と切り捨てることにしか役に立たない。

掟がリアルであることと、
掟破りがリアリティがあることは、
全く別のベクトルなのだ。


世界設定のリアルは、取材で探すものである。

作者にはある夢想がある。
「こんな世界で、こんな事件が起こったら?」
というものだ。
その事件は、リアリティがない方がすっ飛んでいて面白い。

しかしそこにリアリティを出すならば、
「その世界で普通の人がどういう反応をするか?」
を取材で構築していくのだ。

作者は、夢想とその着地について最も詳しいべきで、
世界の反応について詳しいべきではない。

世界の反応は、あとから付け加えていくのだ。



小さな例を。
ドラマ風魔9話の将棋会館の話。

僕は、氷川が対戦を中座し、洗面所で顔を洗わせたかった。
「水が止まる」(屋上で霧風が給水タンクを使っているため)
という場面のためである。

「表で部活の試合、裏では忍びの死合」というコンセプトを、
「水が止まる」という象徴的な絵にするためである。

で、リアリティの構築のために知りたかったことは、
「試合を中座してトイレに行くことはリアルか」だ。

取材により、以下のようなことがわかった。
「持ち時間内なら何をしてもよい」
「わざわざ断らなくてもよい」
「『長考』と言う必要もない」
「立ってうろうろしながら考える人もいる」
「対戦相手や検分人の迷惑にならない程度の常識の範囲で」
(当時はなかったが、現在だと中座はAIカンニングの恐れがあるため、
電子機器の持ち込み禁止の検査があるそうだ)
「廊下を歩いて考えたり、トイレで一人で考えること」
などは、
普通にあるらしい。

その中で、「氷川は律儀なので、中座するときは、
『長考します』とわざわざ一礼する」
という、将棋をしない人にもする人にもわかる、
リアリティを構築したわけである。

たったあのワンカットのために、
ここまで取材し、物語(その世界ではあり得ないこと)が、
成立し得るのかを考えてあるわけだ。

「『長考します』と一礼して中座するのはリアルではない」
という調査担当に対して僕は怒った。
「対戦中トイレに行くときにどうするのがリアルなのか、
動線を考えろ。そしてそれが観客にわかりやすく提示できる、
リアリティの範囲を創作せよ。
重要なのはストーリーで、設定ではない。
ストーリーを成立させるためのリアリティ補強が設定だ」と。

もしあの場面、リアルならば、
ただすっと立つだけだった。

それはリアルかも知れないが、
将棋経験者(少ない)にはリアルでも、
観客にはこれから何が起こるのかまったく分からない。
なぜ中座するのか、中座はルール上OKなのかすら分からない。

そんな両方の人たちに、
「長考のために中座するのはルール上OK」
「氷川は律儀な人」
の二つを伝えることができるのは、
脚本上一行で済むわけだ。

氷川 「…長考します(と一礼して中座する)」

でよいわけだから。

この時「周りの反応」がリアリティだ。
つまり、わざわざ宣言するのはあんまりないことけど、
別に礼儀に反しているわけでもないから、
「軽く会釈する」
ということになったわけだ。
(対戦相手の西脇は自信満々になっている、
というストーリー上のリアクションはある)

このことによって、これは自然に受け止められ、
ストーリーは「あり得ない方向」へ自然に進むことができる。


「将棋会館の屋上で忍びが戦う」のはリアリティではない。
夢想である。
しかしそれが起こると面白いと考えるのが物語である。

それがリアリティを持つのは、
「試合中、長考の為にトイレに籠った氷川が、
頭を冷やす為に顔を洗っている最中、
水が止まる」
という場面で構築されているわけだ。
「そうか、屋上で給水塔の水を大量に使えば、
ビルは断水だ」は、
リアリティがあるからだ。

すなわち、リアリティとは、
その架空世界と、私たちの世界が、
繋がっている感覚のことである。

同様に9話では、
姫子が忍びの殺し合いを、「警察に相談した方が」と、
リアリティ溢れることを言い出す。

私たちの世界での常識を非日常に放り込むことで、
「ああ、異常事態が起こっているんだ」
というリアリティ構築に役に立っているわけだ。

これはボケという異常に対して、
常識を併置することで距離を測定する、
ツッコミの役割を果たしている。



最初の話に戻れば、
「アイドルが転校してくる高校」と、
私たちの世界が繋がっている感覚があれば、
リアリティがあった。

それがなければ、
それが本当に起こったことであろうが、
リアリティはない。

コロンバイン高校乱射事件をもとにした「エレファント」は、
リアルに基づいた映画だけど、
リアリティが全くなかったことと同じである。


リアリティは、
夢想を萎ませる方向に働くべきではない。
夢想を強化する方向に働かせる。
「そんなの、あるわけがない」を、
「それなら、あり得る」に変える。
posted by おおおかとしひこ at 10:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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