あるエピソードを思いついたとする。
それは、そのプロットのままの方が、面白いか?
それとも、
台詞つきで、実際にその場面を見たほうが面白いか?
後者のものを実際に脚本化したほうがよい。
前者のものは脚本にはならない。
もしなるとしたら、
「誰かの口で語られる、思い出」の形としてがベストだろう。
たとえば、
「父はよくこういう冗談を言って笑わせた」
というものがあるとする。
たいして面白くない冗談のときもあるだろう。
しかしそれが父の人柄を示したり、
父のことを語るその人の父への思いを表現することになり、
冗談そのものは、たいして大事でないことが多かったりする。
ということは、それをオンで描くのではなく、
オフで描いたほうが得策だ。
あるエピソードを構想しているときに、
とても面白い設定や場面や特殊なものを思いつくことがある。
しかしそれを冷静に考えよう、
というのがこの記事の趣旨だ。
それは、
誰かの口から語られたほうがより魅力的に見えるのか、
それとも実際にその場面の目撃者としていたほうが、
より魅力的に見えるのか、
を、
冷静に考えるべきであろう。
そして、
今実際の場面のアイデアとしてふさわしいものを考えているならば、
誰かの口から語られるほうが魅力的なエピソードは棄却するべきで、
新しいエピソードを考えなおすべきだと思う。
もちろん、
面白い、魅力的なエピソードは、
プロットストックにしておくべきだけど。
プロットと実際の原稿の間にある誤りは、
「プロットでは面白そうだったのに、
実際に書いてみると面白くなかった」、
またはその逆、ということだろうか。
実際に書いてみると面白かったらラッキーなので、
それは頂くとして、
プロットでは面白そうだったのに、
実際に書いてみるとそうでもない、
というケースを学ぶべきである。
つまりそれは、
「他人の口から語られたときに面白そうだが、
実際その場面に立ち会ってもたいして面白くない」
という形をしている、
ということである。
「伝説の試合」とか、
「伝説のレース」とか、
「語り草」とかは、
たいていそうしたものであることが多いと思う。
僕らの世代でいうと、
アリ猪木戦は伝説的であるが、
実際の試合内容は、
とても退屈なもので、超がっかりだったことを覚えている。
しかし人の口から語られると、
凄かったんだ、と想像だけが膨らむような試合だ。
「人の口から語られるほうが面白い」
と、
「実際、その場面を体験することのほうが面白い」
の、
二種類がある。
あなたは後者をつくるのである。
(もちろん、前者のタイプを思いつくこともあるので、
それは誰かの登場人物の口から語らせて、
よさげに見せることはやってもよい)
あるいは、
執筆力がない場合、
本来その場面を描けば面白いものであったとしても、
実力不足で面白くできないパターンもある。
それは、実力を上げるか、
描くエピソードのレベルを下げるしかない。
あなたが書けるものを書きなさい。
一人称と三人称の関係にも似ている。
その人の主観で面白いことと、
他人の間で共有して面白いことは違ってたりする。
少なくとも、
これはこっちだ、と判断できるようになれば、
間違ったものに延々振り回されて、
いつまでたっても書けない、なんてことから抜けられる。
プロットの時は面白かったのに、
いざ書いてみたら全然ダメで、落ち込む原因は、
ひょっとしたら「プロットでしか面白くない」
エピソードを作ってしまったことが原因かもしれないのだ。
その場面に立ち会って面白い場面をつくりなさい。
プロット段階でしか面白くない場面と、区別出来るようになるとよい。
2020年10月07日
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