2020年10月16日

今を面白くする、ゴールのためにたどり着く

執筆中は、この二つだけを考える。
二つのどちらが欠けてもだめだ。


「ゴールのためにたどり着く」が欠けると、
ストーリーは計画を離れ、
明後日の方向へ暴走する。

今が面白くても、落とし前がつけられなくなる。
この面白さが、どう最後にどうなり、
それに何の意味があったのか、意味不明になる。

それは本来プロット段階、
全体を俯瞰した時に計画されるべきであり、
アドリブでオチを作るのは無意味だ。
それはたいてい迷走になる。

計画なしに突っ走って、ただしく120ページ後のゴールに辿り着くことは、
羅針盤なしに太平洋に出てロサンゼルスに着くことと同じ確率だ。

多くの人が脚本作りに挫折するのは、
今を面白くすることは出来るが、
それがなんなんだっけ、と方向性を見失うからだ。

最も脚本の中で起こる事故は、
「なんのためにこれをしてるかわからない」だ。


常にゴールは見えている。
作者にも観客にも。
だから面白い。
今これをやることが、ゴールのこれに繋がると信じるから、
それに身が入るのだ。


「今を面白くする」が欠けると、
行動が義務や機械的や説明的になってしまう。

射精するためだけのセックスが詰まらないのと同じだ。

たしかにゴールには向かっているかも知れないが、
人間には感情や機微があり、
人間関係にも機微や浮き沈みがある。

人間の魅力は、逆境において初めて光る。

あるいは、平常時の魅力もある。
それらが崩れる瞬間の面白さもある。
冗談が有効な時もある。
知性が面白い時もある。
対句や構造が面白い時もある。
ディテールに神が宿る時もある。

あるいは、
同じものを語るにも語り口の工夫というものがあり、
部分から全体を見せたり、その逆であったり、
意外性を盛り込んで飽きさせないなどがある。

大声で語るところと小声で語るところは、
内容に応じて選択するべきであり、
たまに逆にする面白さがあってもよい。

ムードを作ってもいい。
舞台装置に工夫があってもいい。
天の配剤に運命を感じてもいい。
作為は感じてはいけない。



これらの、どれが欠けても、おもしろくない。

おもしろさとは、
これらが常に渾然一体となっていることをいう。

今を華やかに面白くする。
そしてゴールへと力強く突き進む。

その二つが同時にできることが、
脚本を書くということである。
posted by おおおかとしひこ at 01:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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