執筆中は、この二つだけを考える。
二つのどちらが欠けてもだめだ。
「ゴールのためにたどり着く」が欠けると、
ストーリーは計画を離れ、
明後日の方向へ暴走する。
今が面白くても、落とし前がつけられなくなる。
この面白さが、どう最後にどうなり、
それに何の意味があったのか、意味不明になる。
それは本来プロット段階、
全体を俯瞰した時に計画されるべきであり、
アドリブでオチを作るのは無意味だ。
それはたいてい迷走になる。
計画なしに突っ走って、ただしく120ページ後のゴールに辿り着くことは、
羅針盤なしに太平洋に出てロサンゼルスに着くことと同じ確率だ。
多くの人が脚本作りに挫折するのは、
今を面白くすることは出来るが、
それがなんなんだっけ、と方向性を見失うからだ。
最も脚本の中で起こる事故は、
「なんのためにこれをしてるかわからない」だ。
常にゴールは見えている。
作者にも観客にも。
だから面白い。
今これをやることが、ゴールのこれに繋がると信じるから、
それに身が入るのだ。
「今を面白くする」が欠けると、
行動が義務や機械的や説明的になってしまう。
射精するためだけのセックスが詰まらないのと同じだ。
たしかにゴールには向かっているかも知れないが、
人間には感情や機微があり、
人間関係にも機微や浮き沈みがある。
人間の魅力は、逆境において初めて光る。
あるいは、平常時の魅力もある。
それらが崩れる瞬間の面白さもある。
冗談が有効な時もある。
知性が面白い時もある。
対句や構造が面白い時もある。
ディテールに神が宿る時もある。
あるいは、
同じものを語るにも語り口の工夫というものがあり、
部分から全体を見せたり、その逆であったり、
意外性を盛り込んで飽きさせないなどがある。
大声で語るところと小声で語るところは、
内容に応じて選択するべきであり、
たまに逆にする面白さがあってもよい。
ムードを作ってもいい。
舞台装置に工夫があってもいい。
天の配剤に運命を感じてもいい。
作為は感じてはいけない。
これらの、どれが欠けても、おもしろくない。
おもしろさとは、
これらが常に渾然一体となっていることをいう。
今を華やかに面白くする。
そしてゴールへと力強く突き進む。
その二つが同時にできることが、
脚本を書くということである。
2020年10月16日
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