2020年10月11日

【薙刀式】作家視点から見た長文タイピング

eタイピング長文1000越えの動画。これはまじですごい。
https://mobile.twitter.com/GOTOUkun510/status/1314870501630636032

以下に、薙刀式が目標としていることとの差異を述べる。
結果的にタイパーをディスるように見えるかもしれないが、
僕は彼我の差を確認したいだけだ。


・暗記で文を書くことの意味。

初見でこれが出来たら超人だろうけど、これは暗記の結果だろう。
その行為をするために薙刀式があるわけではない。
薙刀式の目的は、創作文章である。


・そもそもこの字数は長文ではない。
 
薙刀式や作家レベルの思う長文は、10万字(単行本一冊)程度だ。
作家によっては10万字はまだ短編だという人もいる。
一日の作業は数千字から数万字程度であり、
薙刀式はこの作業量が毎日続くことを想定している。


・言葉や意味のリズムと打鍵のリズムが異なっている。

暗記の弊害でもあるけどね。

大きなところで言うと、「。」の前後に全く間がないことはあり得ない。
文意の確定で人は考え、そこで手が止まる。
(それと変換作業が平行だろう)
タイパー的には手が止まるのは悪だが、
創作文においてはダメな文が悪だ。
だから間違っているかとか、いまいちかどうかを考える間があるはずだ。
勿論短文二文とかを一気にやることはある。
(この文例では、最後の二文を一気に書く可能性は高い)

同様にもっと細かい構造に入ると、
文の構造単位で「考え」が入るものだ。
「どうしても思い出せない名前の友達はいませんか。」は、
「どうしても思い出せない名前の|友達は|いませんか。」と3ブロックだろう。
「どうしても思い出せない|名前の|友達は|いませんか。」かもしれない。
「どうしても|思い出せない|名前の|友達はいませんか。」かもだ。

人によるけれど、こうした文意のブロックで間が入るものである。
その一つ単位を打鍵の一つ単位で打てるのが、
僕は理想の打鍵だと思う。
意打一致、というべきか。

音打一致が1モーラ1アクション系のカナ配列、
1アルファベット1打がqwertyなわけだ。
(qwertyもここまで来れば意打一致の境地まできてるかもだけど、
それが自然に出来るまでずいぶん鍛えないといけない配列ではある。
そして指の動きを見る限り、自然な指遣いではなく、
変な形で痙攣している、不自然な手の使い方である)


・それを間違わずに正しく速く打てるかはどうでもいい。

それはセカンドベストでしかなく、
プライオリティが最も高いことは、
「それはグッとくる文章か」ではないかと思う。
間違いまくっても、何時間かかっても、
凄い文を書いたやつが勝ちの世界だ。
もっとも、頭の中の文章を効率的に出力できないとイライラするだろうし、
すぐ疲れるような打ち方では何千字何万字は折れるだろう。

理想は、頭の中のグッとくる文章を、
自然に効率的に出し続けるのに適したタイピングだろう。
ついでにプロレベルだと、
第一稿から最終稿までに、何度も何度も直すので、
それがやりやすい入力システムがあるのがベストだ。


・そもそも何度も同じ言葉を打たない。

作家というのは、同じ言葉を同じ文章の中で繰り返さないことを、
半ば義務としている。
同じ言葉を繰り返すことは、同じ思考をループしていることで、
それは馬鹿だからだ。
類語辞典でわざわざ別の言葉に変えて書く人もいるが、
本来そのやり方は間違っていて、
「次々に新しい思考をしてループしなければ、
自然と繰り返し使われる言葉など減る」というものである。

タイパーは同じ文章を何度も打つ練習をする。
作家は、前の文章と違うものを打つ。
目的が真反対だ。


・リライティングこそがライティングだ。

どこの国にもある格言だ。
書いては直し、書いては直しがライティングである。
間違ったから減点していては、リライトが出来なくなる。
「叩き」は叩かれるためにあるのにね。


・日本語は語順に自由度のある言語である。

先の冒頭文、
「どうしても思い出せない名前の友達はいませんか。」は、
「どうしても名前の思い出せない友達はいませんか。」でも、
語順が違うだけで同じ意味である。
しかるにタイピングゲームだとものすごい減点だ。
それどころか完走できないだろう。

さらにこの冒頭文はそもそも、
「確かにいた筈なのに、誰も名前を知らない友達っていませんでした?」
って始めた方がキャッチーだ。

このように文意を保ちながら、
文の形を変形していけるのが日本語の醍醐味で、
それこそが作家が悩むところである。

タイピングゲームはそこを考えない。当たり前だけど。




僕は、タイパーのやっていることは、
書道に似ていると思っている。
間違わずに、美しく速く書き切ることが全てみたいな。

それは印刷のない時代の、
経典を写経する時代からの連綿とした伝統であるような気もする。
書き損じなく、速く美しく写経出来る人が偉いみたいな。

対して作家とは、
その写されるべき本文を創る人のことをいうわけだ。


タイパーと呼ばずに、「書き写す」の意味で、
transcriberって言ってもいいんじゃないか。

タイパーのやっていることは、
transcribing by typingで、
作家のやっていることは、
writing by typingだ。

異なる行為を、日本語で同じ「タイピング」というからややこしいのだ。


僕は作家としてのタイピングの理論を知りたかったのだが、
検索しても検索しても、
書道としてのタイピングの理論しか出てこなかった。

逆に羨ましい。
タイパーのような高度な打鍵理論は、
作家の打鍵理論には存在しない。

精々親指シフト万歳と、80年代から停止したままだ。

それからの30年かけたqwertyタイパーの発展も、
JISカナタイパーの発展も、
百花繚乱のごとき新配列のことも、
感知せぬまま30年停止している。

それならばまだ紙とペンの方が、
理論が安定していると思うくらいだよ。

親指シフトなんて、まったく合理的な配列と思えない。
qwertyとどっこいにしか僕には見えない。


だから薙刀式は、
親指シフト以来の、
作家としての打鍵理論を構築しようとしている、
奇特な配列なのかも知れない。

ピアノを習うことは演奏理論を習うことで、
作曲理論を習うことではない、みたいなことか。
僕は作曲家がどうやったら一番いいピアノの弾き方をマスターできるのか、
を、やっているのかもしれないのだな。

そしてピアノは洗練された道具だが、
日本語入力は、あまりにも奇怪な様式に過ぎる。
それを洗練しようとしているのだな。
posted by おおおかとしひこ at 00:17| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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