「きまぐれ☆オレンジロード」追悼も兼ねて。
三角関係は物語の基本だ。なぜだろう?
いつも言っている通りだ。
「物事は、両極端なコントラストをつけると良い」のだ。
すべての空間を、すべて表現することは不可能である。
オープンワールドといっても地球全体はできない。
だから、創作というのは、
「作者が恣意的に取り出した、特定の部分空間」
で行われる。
それをリアル寄りにするか、思い切り架空寄りにするかは、
内容次第だ。
(リアル寄りといっても、完全なリアルでないことに注意されたい)
で、
「特定の空間」を切り取るときに、
「どこからどこまで」を、
一次元的に考えるとわかりやすい。
「白から黒まで」「高音から低音まで」
などを、技術用語でダイナミックレンジという。
創作空間は、このダイナミックレンジの範囲内が限界である。
つまり、
空間は、両極端な白と黒、高音と低音と、
「その間」で記述されるわけだ。
三角関係はつまり、
女の子AとBを、そのダイナミックレンジの両極におく。
すべての女の子やラブコメは、
AとBの両極端の間で行われるわけだ。
だから、「きまぐれ☆オレンジロード」におけるAとB、
鮎川まどかと檜山ひかるは、
その両極端にいる。
年上と年下、
元不良の影のある女と、明るくてオープンマインド、
黒髪と白髪(白黒なので)、
ロングとショート、
艶のある女っぽい名前と男っぽい名前、
ツンデレとデレデレ、
秘めた恋と、オープンなカノジョ、
フォーマルとカジュアル、
重いと軽い、
などが対比されている。
主人公恭介の心は、
この両極端を女として認識して、
すべての女は、どちらに近いかで世界を認識する。
ブッダとキリストにしてもよい。
世界の神や宗教を、この両極端とその間で論じることができる。
(イスラムはキリストと同根としよう)
この両極端を置くことを、
フレームを設定するという。
(人工知能の認識の枠組みでもある)
世界のすべては、このフレーム内にある。
そのフレームの両極が遠いほど、
その世界は広く、豊かになる。
90年代の漫才のネタで、
「俺音楽詳しいよ。ユーミンからサザンまで」
「せっま!」
なんてのがあったが、
両極端は広いレンジであるべきだ、
ということの逆を笑いにしたのである。
かつては歌謡曲もジャンルがたくさんあったのに、
今やAKBからEXILEまでになってしまった印象は否めないが、
それはまた別の話。
つまり、両極端のコントラストが強ければ強いほど、
その世界は豊かに見える。
それが、まどかとひかるだ。
世界はこんなに広いのに、どちらかしか選べない。
世界を片側に収束させないといけない。
それまでの迷いを面白おかしく描くのが、
三角関係ラブコメである。
我々の世界の認識の仕方と、三角関係は同じなのだ。
だから面白い。
もっとも、三角関係を書く人は、
そんなことを考えずに本能で書くだろう。
しかしまどかとひかるは、
対極的であればあるほど面白いぞ、
と考えるのは本能での判断なのだ。
(同時期に「めぞん一刻」で、
音無響子と、七尾こずえの対比があった。
流石女性漫画家、
音無響子と六本木朱美、七尾こずえと八神いぶき、
音無響子と九条明日菜など、
複数のコントラスト軸、三角関係を仕込んでくるあたりは、
男の単純な世界観とは異なり大変興味深い)
我々の世代では、
ミー派とケイ派(ピンクレディー)、
ビアンカ派とフローラ派(ドラクエ)、
まどか派とひかる派(オレンジロード)などが、
主な対立軸であった。
僕が最初に三角関係を最初に知ったのは、
アンソニーとテリー(キャンディキャンディ)だが、
これもおそらく対比的だったはずだ。
(権利関係でもめて絶版らしい。勿体ない)
三角関係とは、
「主体が見る世界の両極面」と定義でもできようか。
そうすると、フォースの暗黒面と光面は、
本来三角関係の物語にするべきだった、
ということが理解できよう。
物語とは、抽象概念を受肉させて、登場人物同士の関係で描くことだからだ。
(悪は敵を登場させる、愛は恋人を登場させる、
友情は友人を登場させる、仕事は上司を登場させる)
これだけをとっても、SWの脚本のレベルは極めて低いことが理解できる。
(SWが優れているのはディテールと世界観だけだ。
FSSと似ているね)
三角関係を書いてみよう。
世界の豊かさを、二人の女神で両極化するのだ。
2020年10月14日
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