メディアミックスと角川春樹がバブルの頃にやって、
すでに四半世紀が過ぎたか。
かつての宣伝の仕方は、メディアをいくら買うかで決まった。
出稿量こそが宣伝だった。
それに比例して客が来た。
不景気でしばらくになるが、
宣伝費が底をついている。
だから自前で宣伝しなくても、
「ニュースに取りあげられること」が宣伝の代わりとなる、
という考え方が出来てきた。
つまり、ニュースが宣伝だ。
かつてはPR会社を通じてニュースを買っていたりした
(ステマ)が、その金ももうない。
だから、自然発生的なニュースに頼らざるを得ない。
だが、ニュースは所詮ニュースだ。
数秒数十秒、紙面でもわずかで言えることしか言えない。
しかもセンセーショナルでないと意味がないから、
わかりやすくセンセーショナルでないと取りあげない。
だから、
人気芸能人が過激な役とか、
人気原作を実写化とか、
人気バンドが音楽を担当とか、
人気なんとかと人気なんとかのコラボしか、
ニュースに取り上げられない。
コロナには陰謀があった、その陰謀を追うとか、
大統領選挙で行われた不正とか、
仮にセンセーショナルな内容を考えて、
話題を狙ったとしても、
実のところニュースは取り上げない。
ニュースバリューは、内容と関係ないところに発生する。
内容を取り上げたら特定の商品の宣伝になってしまうからだ。
(よほど社会に役に立つ発明ならば報道の価値はあるが、
物語の役に立ち方は、新商品のそれではない)
ということで、
内容と関係ないところが企画だと思われ、
「(既知の)〇〇と〇〇が××する」
が企画だと軽く信じられている世の中になった。
それは既知のものの組み合わせで、
既視感しかないぞといっても、
通用しない。
既視感があることは安心感であり、
それはニュースバリューがあることだからだ。
ニュースとは、「既知の何かに何かが起こったこと」でしかなく、
「未知の何か」は未知としてニュースで取り上げづらいのだ。
何が間違っているのか?
ニュースで取り上げてもらうことで宣伝されようという、
スケベ心、よこしまな心である。
本来、
このような新しいシチュエーション、
このような新しい動機、
このような新しいタイプの仕掛け、
などの、
物語そのものでの宣伝をするべきだ。
(かつての映画の予告編はそれに満ち満ちていた)
それをする力がなくなったから、
ニュースで取り上げてもらうガワだけが企画になってしまったのだ。
だから映像による娯楽、
内容でドキドキして次が楽しみになるもの、
終わったら本当に満足するもの、
つまり映画やドラマやCMは、
もう死んだのかもしれない。
主演が誰、〇〇な役、
なんてニュースだけを垂れ流すニュースがわるい、
それにしか反応しない民度がわるい、
というのは簡単だが、
じゃあどうすればニュースの質を上げ、民度を上げられるのかは、
実際のところよくわからない。
物語というのは最後までみてはじめて価値があるものであり、
見る前に価値をネタバラシすることが出来ないという、
原理的に致命的な欠陥を抱えている。
「これから見る物語が名作である」という保証は、
そのブランドでしか事前に測ることができない。
(予告編はその保証をしようとしていたが、
嘘予告編なんていくらでも作れるからね)
かくして、
内容などどうでもいい、
ニュースバリューがあるだけの企画が、
現場で「これはニュースに取りあげられるぞ」
なんてほくそ笑まれながら、
制作へ進んでいく。
現場で、「こんなんじゃ面白くもなんともないから、考えなおし」
なんて声を聞いたのは、
十年くらい前かもしれない。
最近、
しょうもない企画作業をやって、
内容よりもニュースに取り上げられるかばかり気にして、
肝心の内容がすごくつまらなくなっていく体験をした。
幸い自分の企画ではなく、
同僚の企画がそのように変形していったのだが、
なんというつまらなさよと嘆いても、
「これはニュースに取り上げられるぞ!」しか鼻息を出さない人々に、
説教しても始まらないので、
放っておいた。
ああ、出会う人を間違えたとそっ閉じするしかない。
金がない→客が入らない→宣伝できない
→タダで宣伝されるやつ→内容がない
→ブランド低下→客が入らない
のループが、回っている。
金は回っているのかしら。
回っているのなら、経済は回るのだろうか。
まあいずれ死ぬよねこれ。
それと、面白いストーリーというのは、
ほぼ関係がない。
面白いストーリーを書き給え。
それだけで売れるやつをだ。
2020年10月18日
この記事へのコメント
コメントを書く