見世物で最も面白いのは対決である。
勝者は君臨し、敗者は死ぬ。
他の見世物にはどんなものがあるか、
まずは考えてみよう。
対決以外の見世物は、
「すごいもの」だと僕は思う。
すごい技巧、すごい体、すごい芸、
なにかは分からないが、
これまでを超えたすごいものが、
見世物の資格があると思う。
ただ、このすごいものは、
点である。
このすごさを味わったらおしまいだ。
だから展覧会は時限がある。
飽きたらおしまいだからである。
(美術館における常設展は、
その中でも選りすぐりのすごいやつを、
常に見れるようにしてあるわけだ)
飽きられたすごいものたちは、
まだ飽きてない人のところへ巡回するか、
次のすごいものにとって代わられるわけである。
サーカスを想像しよう。
すごいものの博覧会である。
しかしそれらは点だ。
一回見ればすごさがわかり、二回は見なくていいものだ。
(あまりにもすごいから何回も見たい、はあるかもだが)
もしそれに線があるとしたら、
「このように生まれて、このように鍛えて、
ついにここまできた」だろうか。
どちらにせよ、過去の線でしかなく、
現在は点であり、つまりは出オチである。
これらの見世物とちがい、
対決という見世物には線が未来に引かれている。
対決の結果、どっちが強いか明らかになる、ということだ。
どうなるか分からないからおもしろい。
それまでの過去の線、戦績や得意技や、
それぞれのすごさを付加して、
対決の未来をより豊かに面白く想像させるのは、
見世物の常套だ。
映画は見世物である。
ラスト、クライマックスにおいて、
対決の存在する見世物である。
(クライマックスに対決の存在しない、
面白い映画があるなら教えてください)
だがその対決は、見世物としては行われない。
見世物はメタ文脈でしかなく、
物語の中では、彼らが自発的に対決することになっている。
見世物だから対決するのではなく、
彼らの意思で対決することが、
結果的に、メタ的に見世物になっているだけだ。
つまり、見世物の正体は、
彼らの意思である。
「なぜ、彼らは自らの意思で対決するのか」
「どういう経緯なのか」
「ほかに回避手段はなかったのか」
「必然なのか」
これをアングルという。
アングルというのはプロレス用語で、
ただの試合という見世物に、ストーリーを与えるものを言う。
「あいつは俺の師匠を侮辱した。だから試合でぶっ潰す」
「そもそも生意気なのはあいつのほうだ」
なんてやつだ。
WWFには明らかに脚本家が入っていて、
無数のアングルのバリエーションがあるからチェックすると面白いぞ。
そんなことで対決になるのか!という発見もある。
「WWFを支配しようとする悪の経営者。
それに反発したレスラーたちが娘を誘拐。
怒った経営者はスーツを脱ぎ、レスラーとして彼らと対決」
とか普通にやっている。まるでアメコミだぜ。
対決する者たちは、すごいことが見世物の基本だろうか?
すごいだけで我々と関係ないなら、
それは見られないと思う。
サーカスの頂点vsサーカスの頂点は、
すごい対決だけど、どこか遠い世界の出来事だ。
それを我が事のようにするのが、感情移入という特別な技術なのは、
これまでも書いてきたので省略。
つまり映画という見世物は、
感情移入している、すごい二人が、
すごいシチュエーションで、
自らの意思のアングルで、
対決するものである、
といえる。
なぜ対決するかというと、
事件を解決するためである。
事件を解決するにはその対決が必要だから、
主人公は殺し合いをする。
(殺さなくてもいいけど)
このように考えると、
映画は、
対決とアングルの見世物なのである、
と俯瞰することができると思う。
逆算で考えれば、
誰と誰が対決するのか、
彼らはどうすごいのか、
そのすごいシチュエーションはどんなか、
そしてなぜ彼らは殺し合う対決をするのか。
そこに至るためにどのような経緯があったのか。
それらを組み上げていけばいいわけだ。
ストーリーを考えているときには、
わりとそこが見えないことがある。
対決の絵は見えていても、
なぜ二人が自分の意思で、
に無理があったりする。
自然で無理のない、そしてすごい対決を。
それが映画という見世物だと考えると、
構造はスッキリ見えてくる。
2020年10月19日
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