2020年10月19日

対決とアングル

見世物で最も面白いのは対決である。
勝者は君臨し、敗者は死ぬ。

他の見世物にはどんなものがあるか、
まずは考えてみよう。


対決以外の見世物は、
「すごいもの」だと僕は思う。

すごい技巧、すごい体、すごい芸、
なにかは分からないが、
これまでを超えたすごいものが、
見世物の資格があると思う。

ただ、このすごいものは、
点である。

このすごさを味わったらおしまいだ。
だから展覧会は時限がある。
飽きたらおしまいだからである。
(美術館における常設展は、
その中でも選りすぐりのすごいやつを、
常に見れるようにしてあるわけだ)

飽きられたすごいものたちは、
まだ飽きてない人のところへ巡回するか、
次のすごいものにとって代わられるわけである。

サーカスを想像しよう。
すごいものの博覧会である。

しかしそれらは点だ。

一回見ればすごさがわかり、二回は見なくていいものだ。
(あまりにもすごいから何回も見たい、はあるかもだが)

もしそれに線があるとしたら、
「このように生まれて、このように鍛えて、
ついにここまできた」だろうか。

どちらにせよ、過去の線でしかなく、
現在は点であり、つまりは出オチである。


これらの見世物とちがい、
対決という見世物には線が未来に引かれている。
対決の結果、どっちが強いか明らかになる、ということだ。

どうなるか分からないからおもしろい。
それまでの過去の線、戦績や得意技や、
それぞれのすごさを付加して、
対決の未来をより豊かに面白く想像させるのは、
見世物の常套だ。


映画は見世物である。

ラスト、クライマックスにおいて、
対決の存在する見世物である。

(クライマックスに対決の存在しない、
面白い映画があるなら教えてください)


だがその対決は、見世物としては行われない。
見世物はメタ文脈でしかなく、
物語の中では、彼らが自発的に対決することになっている。

見世物だから対決するのではなく、
彼らの意思で対決することが、
結果的に、メタ的に見世物になっているだけだ。

つまり、見世物の正体は、
彼らの意思である。

「なぜ、彼らは自らの意思で対決するのか」
「どういう経緯なのか」
「ほかに回避手段はなかったのか」
「必然なのか」

これをアングルという。


アングルというのはプロレス用語で、
ただの試合という見世物に、ストーリーを与えるものを言う。

「あいつは俺の師匠を侮辱した。だから試合でぶっ潰す」
「そもそも生意気なのはあいつのほうだ」
なんてやつだ。
WWFには明らかに脚本家が入っていて、
無数のアングルのバリエーションがあるからチェックすると面白いぞ。
そんなことで対決になるのか!という発見もある。

「WWFを支配しようとする悪の経営者。
それに反発したレスラーたちが娘を誘拐。
怒った経営者はスーツを脱ぎ、レスラーとして彼らと対決」
とか普通にやっている。まるでアメコミだぜ。


対決する者たちは、すごいことが見世物の基本だろうか?

すごいだけで我々と関係ないなら、
それは見られないと思う。
サーカスの頂点vsサーカスの頂点は、
すごい対決だけど、どこか遠い世界の出来事だ。

それを我が事のようにするのが、感情移入という特別な技術なのは、
これまでも書いてきたので省略。


つまり映画という見世物は、
感情移入している、すごい二人が、
すごいシチュエーションで、
自らの意思のアングルで、
対決するものである、
といえる。

なぜ対決するかというと、
事件を解決するためである。

事件を解決するにはその対決が必要だから、
主人公は殺し合いをする。
(殺さなくてもいいけど)


このように考えると、
映画は、
対決とアングルの見世物なのである、
と俯瞰することができると思う。


逆算で考えれば、
誰と誰が対決するのか、
彼らはどうすごいのか、
そのすごいシチュエーションはどんなか、
そしてなぜ彼らは殺し合う対決をするのか。
そこに至るためにどのような経緯があったのか。
それらを組み上げていけばいいわけだ。

ストーリーを考えているときには、
わりとそこが見えないことがある。

対決の絵は見えていても、
なぜ二人が自分の意思で、
に無理があったりする。

自然で無理のない、そしてすごい対決を。
それが映画という見世物だと考えると、
構造はスッキリ見えてくる。
posted by おおおかとしひこ at 00:12| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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