主人公に関してはうまく書けていても、
どうしても詰まるときはある。
そういう時は、相手役のことがちゃんと描けていないことが多い。
だから、その人物に関してチェックしていくとよい。
どこからか。おそらく初登場からだ。
最初に出てきたとき、何をその個人として考えていたか。
主人公の考えと何が違うのか。
あるいは、何が同じなのか。
主人公と絡むとしたら、
どこまでは妥協できる範囲で、
どこまでが我慢ならない相違点なのか。
そのへんをしっかりと設定されているかチェックしよう。
おそらくそこまで明確になっていないことが原因であることが多い。
だから、初登場まで戻るのだ。
彼または彼女の劇的な動機は何か。
それゆえにあとあと対立が起こるはずだ。
最初からそれをもった人物として登場していないことが多くて、
適当に、惰性で描かれていたから、
あとで困っていることがとても多い。
もしあとで対立することが前提だとしたら、
ここまで曖昧にせずにもっと的確にセットアップしたはず、
そういう判断ができるならば、
その場で最初から書き直したほうが早い。
その動機をもって、その考え方をもって初登場し、
発言したり行動したりし、
あるいは意図的に言わなかったり、行動しなかったりする。
そういう生きた人間として描くことが可能になる。
その人間は、主人公とは異なるまったく別の人である。
同一人物ではない、という意識でやれば、
おのずと違いや同一点を把握しやすい。
二度目三度目の登場シーンでも同様で、
前の登場時から引き継いでいる動機や目的や考え方を踏襲したり、
適応したりしながら、
主人公と対立する重要シーンへ導いていくとよい。
問題は、曖昧なまま放置することだと思う。
敵とは言わないまでも、
敵対するところ、反発するところ、
感情的になるところがあれば、
その通りにドラマは動くだろう。
そのようにドラマが動かないから、
詰まっているのだと思う。
話が流れるとは、
今やるべきことが分っていたり、
今言うべきことがあることだと思う。
キャラクターが曖昧なのに、
それが明快に出来るわけがないと思う。
ストーリーの運び手は、作者ではなく登場人物である。
それが生き生きしてなくて、
どうやって生き生きした話が書けるというのだろうか。
曖昧なキャラクターは、
当然ながら完成稿にいるべきではない。
第一稿から全員完璧なキャラクターになっている例はまれだから、
こうやって掘り込みを深くして、
話を転がせるようにしていくのだ。
おそらくこの作業は、
主人公と絡む人物全員についてやることになるかもしれない。
あるいは、主人公のいない場で絡む人物同士でもやるかもしれない。
まあ結局、登場人物の数だけ、
最初から書き直されるのかもしれないね。
それを厭わずにやれるかが、勝負どころ。
でも生き生きと、良くなることがわかったら、
めんどくさいけど積極的にやるべきことと分かるだろう。
それだけの回数、遡ったり書き直したりするのは、
僕はエディタよりも手書き原稿の方が楽だと思う。
それだけの回数書き直しても、
ここが本線だと示すことが楽で、いかようにもフリーレイアウトで、
紙一枚挿入も簡単だ。
逆にエディタだと変更履歴、「ここをこう直した」
「直したここを前に戻したい」がわかりにくいため、
余計に混乱すると思う。
手書きで発達した文化は、それを使うのが一番合理的だぜ。
こうしてはじめて脚本は立体的になり、
複眼的になってゆく。
ここまできて、やっと主観を離れ、
客観的視座を得られるようになるのかもね。
2020年10月20日
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