前記事をさらに煮詰める。
チームの動機が「ニュースに取り上げられること」が第一にあり、
「見た人の心を動かし、人生に深く影響を与えること」が第一にないのが問題だ。
僕は両方が必要だと思っている。
前者をガワ、後者を中身と仮に呼ぼう。
本来的には、
これは一人の中で両方考えなければならない。
ところが、
中身を考え、微妙ならば変形して良いものにし、
そして名作を生むには、
とてつもない才能が必要だ。
だがガワを議論することは誰でもできる。
ニュースに取り上げられそうな要素が、
あるかないかをチェックするだけでいい。
いわば国語の客観テストである。
あった、なかったを見つけるだけのゲームだ。
この、誰でも出来るゲームによって、
チーム全員が参加できる。
数々並んだ企画の中から、
一番ニュースに取り上げられそう、という予測は、
多数決というよく分からない力学で決まり、
その順に優秀な企画と定義される。
優秀な企画とは、中身がどれだけ優れているかで決まる。
どれだけ心を動かすか(感動するか、笑えるか、驚くか、納得するか、など)、
それがどれだけ深く永く人生に影響するかだ。
その議論をすっとばして、
企画は順位づけられ、一番がオススメとされるようになる。
中身を議論して、せっかくいい中身なのだから、
ニュースに取り上げられやすいように、
こうアレンジする手はあるでしょ、
という議論こそが企画打ち合わせだ。
あるいは、このように中身を変更するとさらに良くなるのでは、
なぜなら、と議論することが企画打ち合わせだ。
だがそれをするのは、中身をいじれるだけの才能が必要で、
それは全員が持っているわけではないし、
チームの中でもばらつきがある。
こうして、
複数の人間でつくる、チームとしての映像づくりは、
多数決というよく分からない原理によって、
中身と関係ない、ニュースに取り上げられそうなものが、
制作される。
そして、ニュースに取り上げられたから見たけど、
別に、という失望を経て、
映像そのものの権威が落ちていく。←いまここ
映像体験そのものが凄いのではなく、
出ている人が凄いという風になっていく。
「ニュースに取り上げられている人が出るから凄い」と。
YouTubeなどの個人制作物はそうではない。
ニュースに取り上げられるかどうかは無視だ。
中身が面白いかどうか、ブランド(この人らしい)を提供しているかで決まる。
つまり中身で勝負している。
YouTubeに、今「チームで作る」プロの映像が勝てていない理由がこれだ。
おれが個人制作するYouTuberになればいいのかな。
せっかくプロになったのにな。
プロだから、投資を回収しなきゃならない。
プロだから、たくさんに見られなければならない。
プロだから、告知しなければならない。
プロだから、ニュースに取り上げられなければならない。
ん?
プロだから、トップオブトップの面白いものを作らなければならない。
が抜けてるね。
今の制作過程に、この大事な、そしてほとんどすべての、
この一行が抜けているのはどうしたことだろう?
僕にはよくわからない。誰か解説してくれ。
なぜチームでプロで製作すると、
中身の議論をせずにガワの議論しかしないのか?
答えは僕は最初に言ってしまったかもな。
才能のない奴がチームのオールを握っているからだね。
2020年10月18日
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