実際にそこへ行こう。
実在の場所があるならば、そこへ行こう。
そこでしかわからないこと、
想像でしかわからなかったことが、わかる。
一言でいうと、空気を吸ってこい、
ということだ。
想像で書いていたことが、
急に肉体を持つことがある。
あるいは、その点の場面には影響がなくても、
そこにいる人物が、どう次に考えるかに影響があることがある。
想像だと曖昧だった部分が、急に輪郭をとり、
キャラとして成り立つようになることがある。
あるいは、
主人公については想像が足りていたが、
他の人物について足りなかったことが想像できるようになることがある。
その空間で生きていた人ならば、
ほかにこうも考えるだろうなあ、
ということが想像できるようになるためだ。
僕はいま幕末から明治初頭の話のために取材しているのだが、
時代劇など見ないもので非常に苦労している。
しかし、舞台になった実在の場所、
両国、上野、浅草のその場所にいくことで、
言葉にならない感覚を得ることができた。
実際は東京空襲で、ほとんど跡形も残っていなくて、
座標と区画くらいしか合っていないのだが、
でもこのアスファルトの下を歩いていたんだ、
ここからここまで実際に歩いたんだ、
隅田川のこの橋を渡ったんだ、
登場人物たちは、
と思うだけで、
何やら空間的な実在感が違うようになってきた。
ある場所とある場所しかシナリオには描かなくても、
ここからここまでこれくらい歩いてかかるとか、
これくらいの移動を事前に覚悟するとか、
そこならいけるやろとか、
そういう言葉になりづらい感覚、
体でしか判断できない感覚を、
体で理解したことはとても大きい。
シナリオに書かれたものは、
そこに言外のものを含む。
その言外の部分(の一部)を知ることができるのは、
とても大きい。
そこに行って、歩いてみればいい。
できれば季節も合わせて。
雪国のことを書くならば、
歩いたり走ったり、車で走ってみればいい。
南国のことを書くならば、
そこで歩いたり、日陰に入ってへばったりしてみればいい。
「そこでしかわからない感覚」が、
リアルに予想できるようになったとき、
その人物しか判断できないような判断や、
その人物しか言えないような言葉が降って来るだろう。
脚はどうだ。手はどうだ。荷物はどうだ。
耳はどうだ。鼻はどうだ。腹は減ったか、喉は乾くのか。
映画は目と耳しか描けないが、
人間というものは、もっと大きな感覚で世界を捉えている。
2020年10月26日
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