https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/columncat/薀蓄/タイプライター
の下半分、タイプライターに魅せられた男たち、女たち。
配列の合理性よりも、どのプレイヤーが独占するかが目的。
だから配列は蔑ろにされたのだ、ということがよくわかる。
つまり、配列はモノポリーの為の手札でしかなかった。
(他には特許とか借り入れとか売却とか契約とか会社システムとかが手札か)
物理配列と論理配列が分かち難かった事情もあるだろう。
レミントンにQWERTYとカリグラフ配列と両方入れてみて、
どっちが打ちやすい論理配列であるか試す、
などといったことに思考が及んだ人がいなかったことは、
大変悲しいことだ。
むしろ、論理配列という、
どの物理キーボード上でも実現できる配列と、
物理と配列を分離したことに、
新配列の良さがあったのかもしれない。
物理的に109キーボードが標準となり、あとは文字を動かすだけ、
みたいな状況と一致したのかもだが。
ところで、
英字配列でもカナ配列でも、
「当時の設計の常識が抜け落ちて、
忘れ去られたままデファクトになる」
ことがあったことがわかる。
QWERTYにおいては、IOがイチとゼロの代わりになるから、
当時の年号18や19から始まる数字が打ちやすかったとか、
そもそも数字で頻出なのは1と0だから、
母音と重なって都合が良かったなどは、
数字段が1-0まで別に揃った物理配列では、
何の意味もなさないはずだ。
しかしこれを変えてまで、という集合的無意識があったのだろう。
カナ配列でも、
山下の「濁音になるカナは左手、濁点は右手小指」の原則は、
スティックニーには通じずに忘れられている。
一回決まったのを、これを変えてまで、
という無意識が働くのだと思う。
どんなタイプライターでも、
活字を入れ替えられるような仕組みにしておけば良かったのに。
そしたらどんどん自家製配列が生まれただろうにね。
近代の発明品は、
標準化とモノポリーで発展して来た。
それは大量生産の産業革命のパラダイムでもあった。
今は21世紀だ。
前近代のシステムは個人で変えられる。
和文スミスとスティックニーの両配列併記が、
いずれ電電公社によってJISカナへと収斂するのだが、
所詮は電報レベルの使用用途が想定内であった。
作家が小説を書く為の配列も、物理キーボードも、
誰も用途としては想定していない。
それを初めて考えたのが親指シフトだが、
JISカナよりははるかにマシなものの、
出来としては半ばである。
また、作家は人口に比して少ない為、
最もキーボードを酷使するにも関わらず、
その声が開発者に届くことはなかったのだろう。
今や自作キーボードやエミュレータによって、
誰もが開発者になれる。
モノポリーを目指す必要はなく、
それぞれで天下を取ればいい時代になった。
いずれ、人気のある配列は残り、
人気のある自作キーボードが残り、
それ以外は淘汰されていくだろう。
一代限りのものは沢山あると思う。
それよりもフリックが支配的になるかもしれないが。
この時代にQWERTYやJISカナを使っているのは、
この歴史を見る限り阿呆ということが、
良くわかっただけ収穫であった。
カナ配列の配字の根拠になった統計が、
全く現代と違うのもおもしろかった。
この時の常識は今に殆ど残っていないのに、
100年変えられなかった習慣を持ち続ける人類は、
ほんとうに馬鹿馬鹿しい。
形骸化、と一言で言えようか。
逆に、新配列が発見して来た打鍵の法則を、
整理して連ねてみると面白いかも知れない。
これらはQWERTYやJISカナ以後に発見されたものだからね。
(あ、飛鳥理論だけで本一冊になるか…)
2020年10月25日
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