2020年10月29日

全部自分である

対立する二人のキャラクターは、
結局両方自分の「そんな面」を取り出したものだ。


ずるいやつと真面目なやつの対立。
怒りっぽいやつと耐えるタイプの対立。
手っ取り早いとこを好む人と、じっくり結論を出したい人の対立。
慎重派とやっちゃえ派の対立。
悪いやつと正義漢の対立。
怠惰と神経質の対立。
男と女の対立。

なんでもよい。
モデルがいて、こういう人間像だというものがあったとしても、
あなたが書ける人物というのは、
あなたの中のAという成分と、Bという成分が対立している様子だけだ。

設定がいかにすごくても、
実際の原稿がつまらないのは、
設定がわるいのではなく、
あなたの中にあるそのキャラクター的なものが、
描けていないだけの話だ。

クールなやつならあなたの中のクールが喋る。
熱いやつならあなたの中の熱血が喋る。
あわてん坊なら、あなたの中のあわてん坊が喋る。
しっかり者なら、あなたの中のしっかり者が喋るだけのことだ。

よく、作者のIQ以上の天才キャラは書けない、
などと言われるが、
性格や考え方や哲学や生き方も、
その作者の範囲内でしかないのである。

女を沢山抱いて芸の肥やしだというのは、
そういう考え方や性格や生き方を、
なるべくバラエティーがあるように取材していることと同じである。
その人のそういう面を、自分に取り込めるか、
ということにチャレンジしているわけだ。


モデルになっている人の真似をするといい。
そういうやり方もある。
でもそれって表面的なことでしかなく、
本質的な何かは、
結局あなたの中の〇〇的な部分が喋るだけなのだ。

もし激しい対立が描けないのだとしたら、
あなたの中のふり幅が足りていないだけかもしれない。
あなたの中で一番対立していることは何か?
それを抽出したら、書ける要素は何か分るかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 02:48| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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