色々あるんだろうけど、
「手の自然な動きに、配列が逆らったとき」だと僕は思う。
よくわからないけど、
「手が自然にやりやすい動き」というのがあると思う。
逆に、それに反するのは全部不自然な動きだ。
それは、段越えとか具体的なことではなく、
もっと抽象的な感じ。
「ここで左中指なら、Dを押すのが自然だろ」
みたいな、すごく感覚的なこと。
で、
頭の中から出てくる自然な流れの言葉なときに、
配列では不自然な手の動きのときに、
手が自然な動きをしてしまって、ミスタイプとなるケースが、
僕は一番多い気がしている。
頭の中から出てくる言葉が、
わざと引っ掛かりを作るための言葉だったり、
わざと逆目でザリザリした言葉を入れるときは、
手が不自然でも問題ない。
わざとそういう感じだから。
でも自然にすっと出てきた言葉が、
配列上ザリザリした手の動きでしかないとき、
頭と手で、齟齬が起きるのだと思う。
この、言葉の感覚と、手の感覚は、
言語にし難い感覚だ。
抽象的にいうと、言葉と手の感覚の一致を目指すのが、
配列の究極の目的だと思う。
僕には、QWERTYも、下駄配列も、飛鳥も、新下駄も、
言葉と手が合わなかった。
(新JISはわりと合った。でも1/3は合わなかった)
それは頻度じゃなくて、
「その言葉を綴るのに、その指とその順番とその動き」
の一対一の対応関係だと思う。
膨大な言葉と、膨大な指の動きの対応関係の集合体で、
それのどれくらいまで、
自然さと不自然さの対応関係が、合ってるか、
ということだと思う。
薙刀式は、その中でも僕にはかなり合致率が高いのだが、
時々、すごい合わない「ことばと手の不一致」があることがある。
頭の中はスルッとしてるから、
手の方もスルッとやって、ミスすることが、
稀にある。
そういう言葉をひとつずつピックアップして、
言葉単独のときなのか、
前後関係でそうなったのか、
それはレアケースなのか、よくあるのか、
なども検証して、
ひとつずつカナの位置を検討してきた。
しかしこれ以上工夫しても、悪化するだけの領域に来つつある。
それが配列の完成なのかなあ。
いまだに、手の自然な動きでミスすることが、
10分間に数回はあるんだがなあ…
その違和感を0に出来る配列はあるのか。
あるいは、手が器用ならば、どんな配列でも0に出来るのか。
数%の違和感を抱えたまま進む宿命にいるものか?
手書きならば、
手の自然な動きに、文字を変形させて書いてしまう。
同じ「書」という文字でも、
「小説をめっちゃ書く」と「書道全般において」では、
字体を変えて書くと思う。
前者は流れた書き方、後者はカッチリした書き方になる。
こういう、思考に文字(=手の動きの軌跡)が合致しているように、
タイピングでもなりたい。
今のところ、それはストロークの深さや力をどっち方向に入れるかとかで、
変わっている様に思われる。
こんなことを言ってる人があまりいないのは、
タイピングが「書く」こととは別個の、
何かデジタル的な別の行為だと認識されているからなのだろうか。
僕は書くことをシームレスに繋げたいと思っているから、
余計なことを考えてしまうのかしら。
手書きでミスすることはほぼ0だ。
ミスするとしたら、思いを間違えているときだ。
タイピングでは、いまだ、思いは合ってるのに手が間違うことのほうが多い。
その主な原因が、自然さ/不自然さの感覚に近いと思った。
これは0になるのかなあ。
どれくらいの習熟をマスターとするのかよくわからんね…。
2020年10月27日
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