2020年10月29日

映像の限界

映像をよく知らない人ほど、
映像はなんでもできると思いがちだ。
しかし映像には出来ないことがたくさんある。

匂いがないくらいは誰でもわかる。
しかし実際には匂いを思い起こさせる映像づくりは可能なので、
匂いがないことは即限界とは限らない。
(そうでなければ、映像が感情を喚起できる根拠がない)

しかしこれは無理な例を示す。


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この人が昔どれだけモテたかを、一枚絵で示すことが目的だが、
あまりにも無理がある。
「高校までに50人から告白された」ことを、
一枚絵で示すのに、
「大量のラブレター」は、
時代的に変だ。

昭和50年代くらいまでなら、
下駄箱を開けたらラブレターがどさどさと落ちてくる絵は作れたが、
流石に今時はないだろう。

だけど同情はする。
こんなくらいしか一枚絵を思いつかなかったんだろうなと。


つまり、
映像の限界とは、
「そこにある物理で絵作りをしなければいけないこと」だ。

もしラインで50人に告白されたとしたら、
その50枚の絵を一画面に合成しなければならない。
そしてそれはCGを使わないと出来ないし、
今時陳腐なのでその演出を使わない。
また、CGに発注する予算も今はない。

ということで、ADの手作りの、仕込みラブレターを一発抑えておいて、
表現としているわけだ。


他に手段はあるか?

物理という制約があるならば、
「ラインのスクショプリントアウト」という手がある。
どさっと手に持てば、それなりの物理だろう。
(文面でプライバシーがあるならばぼかしを入れれば良い)

でもそれはモタっとした演出だ。

あなたならどうする?
シンキングタイム。







僕なら、卒業アルバムを使う。

これが本人です、かわいいですねー。
で、この人にもこの人にも告白されたんですよ。
(ぼかしを入れる)
で、告白された人にシール貼ってみましょうか。
ほら、こんだけ。
えー何人に告白されたんすか。50人くらい。
50人?!
50枚のシールが貼られた各クラスの集合写真。

…のような流れを作ることができるだろう。
しかしぼかしを入れなきゃいけないのが、
なんだか詰まらないね。
もっとキレのある、「物理の表現」はないかな。

「その50人が、玄関の外に立ってる」
というのは手間を度外視すればなかなかパワーのある絵になるね。

映像は、物理と人で表現することだからね。


別解は他にもある。
あなたならどうするか?



映像には、限界がたくさんある。
その限界を知ったうえで、
限界を悟られないように工夫することを、表現というのだ。

そして限界を知ってる人ほど、
「うまいな」(=限界があるため、凡人ならこう表現してしまうところを、
このような工夫で乗り切っているぞ)と、
その表現を理解することができる。

そういう行為を鑑賞という。
posted by おおおかとしひこ at 13:28| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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