2020年10月31日

なぜコスプレが完璧でも実写映画化は不可能なのか

ガクトが鬼滅の刃の、無惨のコスプレを披露して、なかなか完成度が高くてよい。
コスプレは、そのキャラを再現する娯楽である。

ストーリーは、キャラを再現することではない。


実写映画化の失敗は、
僕は「目的を迫真にできないこと」だと考えている。


漫画のストーリーにおける目的は、
実写の世界に転移させると、
どこか漫画的である。

実写の世界で、
ほんとうにそのような無茶な(漫画的な)行動をするならば、
よほどの理由がなくてはしないものだ。

たとえば鬼滅の序盤、
妹が鬼になったとして、それを戻すことが目的であっても、
岩を切る修行を子供がするだろうか?
そんなの無理だとふつうなら逃げ出してしまって、
まともな医者を探したり、大人を頼るはずである。

それを、
「どうしても岩を切らなければならない」
にストーリーを持っていくには、
それなりの実写的なストーリーが必要だと思われる。

あるいは、
実写の炭二郎は、
妹を人間に戻せれば旅は終わりか?
それとも鬼殲滅までが目的か?
それによって、
「その目的の遂行に対して、
観客を感情移入させるだけのなにか」
が僕は必要だと思う。

なぜなら、実写の世界では、
鬼殺隊の行動や組織論は、あまりにも漫画的だからだ。
警察組織やヤクザや軍隊や隣組などの現実的組織と、
それらは並列するような実在感が必要になってくる。
そこだけ漫画的に悪目立ちするべきではない。



そこらへんの、
実写的リアルワールドへ、
上手に漫画的ワールドを移植できない限り、
実写化は100万年経っても成功しない。

それは作品愛では如何ともしがたい、
脚本的実力を要求される。

たとえば進撃の巨人の実写化を見ればあきらかだ。
「心臓を捧げよ!」の原作の悲壮さや壮絶さは、
実写ではただの陳腐であった。


車田正美的漫画ワールドを、
うまく実写世界に転生させたものに、
ドラマ風魔がある。
コスプレは完璧ではないどころか、
紫やニワトリ頭がいるメチャクチャぶりだが、
ドラマ的世界として上手に成立させてあることは、
これまでの解説やみなさんの感想からあきらかだ。


コスプレはストーリーではない。
ストーリーとは、目的と行動と感情移入だ。

そして感情移入とは、
「全く知らない人なのだが、
その気持ちはすごく分かるので、
この二時間の間応援したいぞ」と思わせることであり、
知ってる友達に抱く親近感ではない。

その差を把握しない限り、
どんな漫画の実写化も成功しないだろう。



マーベルが上手くいっているのは、
目的への感情移入だ。
最初は知らない人なのに、映画半ばになったら、
思わず応援している。それが映画のストーリーというものである。



(なお、映画版「いけちゃんとぼく」は、
その動機付けに半分失敗している。
CGカットを撮影一ヶ月前に突然半分に減らされ、
大手術をしたからだ。
これは僕の脚本力不足であることは認める。
僕は実写化の大成功と、成功失敗半ばの差を、
よく知っている)
posted by おおおかとしひこ at 18:58| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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