ガクトが鬼滅の刃の、無惨のコスプレを披露して、なかなか完成度が高くてよい。
コスプレは、そのキャラを再現する娯楽である。
ストーリーは、キャラを再現することではない。
実写映画化の失敗は、
僕は「目的を迫真にできないこと」だと考えている。
漫画のストーリーにおける目的は、
実写の世界に転移させると、
どこか漫画的である。
実写の世界で、
ほんとうにそのような無茶な(漫画的な)行動をするならば、
よほどの理由がなくてはしないものだ。
たとえば鬼滅の序盤、
妹が鬼になったとして、それを戻すことが目的であっても、
岩を切る修行を子供がするだろうか?
そんなの無理だとふつうなら逃げ出してしまって、
まともな医者を探したり、大人を頼るはずである。
それを、
「どうしても岩を切らなければならない」
にストーリーを持っていくには、
それなりの実写的なストーリーが必要だと思われる。
あるいは、
実写の炭二郎は、
妹を人間に戻せれば旅は終わりか?
それとも鬼殲滅までが目的か?
それによって、
「その目的の遂行に対して、
観客を感情移入させるだけのなにか」
が僕は必要だと思う。
なぜなら、実写の世界では、
鬼殺隊の行動や組織論は、あまりにも漫画的だからだ。
警察組織やヤクザや軍隊や隣組などの現実的組織と、
それらは並列するような実在感が必要になってくる。
そこだけ漫画的に悪目立ちするべきではない。
そこらへんの、
実写的リアルワールドへ、
上手に漫画的ワールドを移植できない限り、
実写化は100万年経っても成功しない。
それは作品愛では如何ともしがたい、
脚本的実力を要求される。
たとえば進撃の巨人の実写化を見ればあきらかだ。
「心臓を捧げよ!」の原作の悲壮さや壮絶さは、
実写ではただの陳腐であった。
車田正美的漫画ワールドを、
うまく実写世界に転生させたものに、
ドラマ風魔がある。
コスプレは完璧ではないどころか、
紫やニワトリ頭がいるメチャクチャぶりだが、
ドラマ的世界として上手に成立させてあることは、
これまでの解説やみなさんの感想からあきらかだ。
コスプレはストーリーではない。
ストーリーとは、目的と行動と感情移入だ。
そして感情移入とは、
「全く知らない人なのだが、
その気持ちはすごく分かるので、
この二時間の間応援したいぞ」と思わせることであり、
知ってる友達に抱く親近感ではない。
その差を把握しない限り、
どんな漫画の実写化も成功しないだろう。
マーベルが上手くいっているのは、
目的への感情移入だ。
最初は知らない人なのに、映画半ばになったら、
思わず応援している。それが映画のストーリーというものである。
(なお、映画版「いけちゃんとぼく」は、
その動機付けに半分失敗している。
CGカットを撮影一ヶ月前に突然半分に減らされ、
大手術をしたからだ。
これは僕の脚本力不足であることは認める。
僕は実写化の大成功と、成功失敗半ばの差を、
よく知っている)
2020年10月31日
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