あの黒人主人公の名前が、
「名もなき男」(原語はプロタゴニスト。主人公の意味)だと知って、
全てが氷解した。
ああ、これは主人公=作者のパターンだな。
ネタバレ含みます。
親友がビッグマザーである。
なぜか愛してくれて、
なぜか自分のために死んでくれる。
自分のことをたくさん知ってくれて、
そして「美しき友情」と呼んでくれる。
なぜかはわからない。未来にまるふりだ。
これが御都合主義以外のなんだというのだ。
単なるメアリースーではないか。
ヒロインにあまり入れ込まない理由がわからなくて、
男女(しかも子持ち)を描く実力がないからかな、
などと考えていたが、
ほっといても向こうから迎えに来てくれる、
親友のほうが願望のヒロインであったか。
メアリースーの特徴はいくつかある。
素性がなく、空であること。
ふつうの主人公は、
乾きや過去をもっていて、
そのベクトル上で現在の目的が決まる。
その軌跡、目的を果たそうとする意思、切迫した事情などに、
我々は感情移入する。
ところがこの主人公はわざとなのかくらい、
この人特有のストーリーが見えてこない。
冒頭の自殺を試みたことが評価されたが、
それは「愛国心の高さ」というスペックの話で、
固有の事情とは関係がない。
ふつうならば、こういう過去があり、
このような理由で愛国心が高いのだ、
という具体的なストーリーが用意されている。
それがなく、名無しの主人公をわざと作っているようにしか見えなかった。
なぜか?
僕は、作者=主人公だからだと思う。
もし自分がスーパーヒーローだったら?
その妄想をするための道具として、
この映画全体を作っているとしか思えない。
自分なんだから余計な設定は無用。
作者≠主人公になってしまうからね。
それは作者一人だけが楽しいオナニーである。
映画は三人称である。
私たちは誰か他人の強烈な事情に、
他人事とは思えない自分達との共通点を見つけて感情移入する。
作者=主人公となっているのは一人称にすぎない。
だからか、
なぜヒロイン(悪の嫁のほう)が主人公とちょっといい感じになるのか、
うまく描けていない。
自分はこんな美女を籠絡する手管をもっていないからだ。
愛国心が高いスーパーヒーローだから、
動機はある。地球を救うことである。
ここに作者は自分を重ねたいから、
そのための物理能力はある。戦闘力とか肉体とか。
でも人間の中身は自分だから、
人間関係が下手な主人公が生まれたわけだ。
実際、この映画のストーリーは前進してるようで、
なにが前進してるのか実感がこもっていない。
逆行世界の伏線で謎をふっておいて、
あの時はああだったのか!
というネタバラシに半分使っているからだ。
なんであいつを追わないといけないんだっけ、
何をゲットしようとしてるんだっけ、
それはなんのためだっけ、
はすぐに曖昧になる。
いや、ストーリー上は、
「今これを追いさえすればよい」に上手に縮約されているのだが、
実際我々の「気持ち」はおいてけぼりである。
ああ、そういうやつ、はい、って感じで、
な、なにい?!そうだったのか、これはやべえぞ…になっていない。
主人公に感情移入できてないからだ。
作者は大興奮だろう。
順行逆行のあるあたらしい世界で、
世界を救うために大冒険してるんだから。
その興奮は伝わってこない。
メアリースーだからである。
メアリースーの特徴的なものは、「最強スペック」だろうか。
全能感を作者が満たすためだ。
ご多分に漏れず主人公は最強だった。
これが故に行動力がある。
「自分の能力が足りていなくて、
ここから先は死ぬかも知れないが、
それでもやらなければならない」
なんてギャンブルが全然なかった。
だからハラハラしないんだけどね。
ラストシーンでそれは爆発する。
僕にはあのラスト、意味がわからなかったんだよね。
なんでインド人のババア殺したんだっけ?
なんで「これで俺が主人公」って言ったんだっけ?
この映画のテーマは、
「普段から人生の脇役だと思っていた男が、
自らのアイデンティティーを確立して、
自分は人生の主人公なのだと宣言する話」
だったろうか?
いや、そうじゃない。そんな冒頭はなかった。
拷問を自殺で避けようとしただけだ。
つまり、テーマとしては「これで俺が主人公」は弱いんだよな。
このセリフは途中でババアに一兵卒として扱われたことに対する、
単なる復讐に過ぎないと思う。(それ以上の理由あったっけ?)
つまりこのセリフは、
単に作者が普段から言ってスッキリしたい言葉に過ぎなかったんだよ。
「言ってやったぜ〜クーっ俺ってかっこいい〜」
って悦に入ってるだけのセリフに過ぎないと僕は思う。
「落下する夕方」テンプレにほとんど同じだ。
主人公は危険を冒した冒険など実はしていない。
周囲がお膳立てしてくれたレールに乗っかっただけだ。
(それがとてつもないレールに見えるが、
主人公は最強なので簡単にこなすだけだ。
主人公自身が恐怖したり迷ったりした場面はほぼなかった)
で、「あまりにも小さな一歩を踏み出して終わる」
のテンプレにもろにハマっていた。
ババアという肉体的にはカスみたいなのを、銃で殺すだけ。
これまでの冒険に比べればあまりにもイージーミッションが、
実は作者にとって最大の冒険なのだ。
つまり、
作者=主人公のこの映画では、
作者レベルでも出来る冒険、サイレンサーでババアを撃つことで、
「勇気ある一歩を踏み出して、俺は変わったと宣言する」
が最大の山場で、
それまでのものはすべて(設定上の)最強能力と、
メアリースーによるお膳立ての、両輪が回っていただけなのだ。
それは、
この映画がどういうテーマを描こうとしていたか?
と問うことで明らかになる。
とくにないよね。
主人公の主義、愛国心ではない。
主人公に欠けているものも特にない。
勧善懲悪といっても、あの悪役は悪というほどではない。
(未来から来た敵の目的もよくわからない。ただのサバイバル?)
この空白性が、
作者=主人公の、「オレツエー」を意味しているわけだ。
オレツエーの呪文の代わりに、
「俺が主人公だ」と決めただけの話。
つまり、この映画は一人称だったのだ。
ノーランの映画は、思い起こせば、
大体一人称的だな。
「とある他人が強烈な事情を持ち、
たいへんな事件に出くわし、
それを解決しようとすることに感情移入する、
なぜならその人と僕らには似たところがあるから」
という三人称構造ではないね。
メメント、インソムニア、バットマンシリーズ、
インセプション、インターステラー、そしてテネット。
(ダンケルクは未見。意外と俺みてるな)
どれも、三人称構造で感情移入するものではなく、
空虚な設定だけの人物が、あまりにも異常な事件を解決するパターンばかりだ。
つまりノーランは、三人称構造の映画ではなく、
一人称形式のハードボイルドを撮っているだけなんだな。
僕がノーラン作品をまったく楽しめない理由がわかった気がする。
君の一人称妄想に付き合ってる時間はないのだ。
2020年11月01日
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