どう思うか、どう行動するかは、
人間の自由意志という大変な問題である。
それを他人から強制されない(思想は自由だが行動は犯罪で規制)のは、
近代に獲得された自由という概念だ。
ところが、自由には責任が伴う。
周囲から間違ってると言われても、
貫く責任と孤独に耐えられなかったり、
間違いを正すことで臆病になったりする。
だから、「まわりを見てそれに従おう」という、
日本人的付和雷同、「空気」が生まれる。
恐ろしいほどの、自分の心に責任を持たない若い意見を見た。
鬼滅の刃はなぜ面白いのか?それは「作品の感想を自分で考える時代は終わった」から
http://blog.esuteru.com/archives/9603721.html
親から感情を与えられる。
組織から感情を与えられる。
そして今度はネットの平均的意見から感情を与えられる。
集合的無意識から感情を与えられた、
自動反応機械=ロボットの誕生だ。
人類補完計画はこれだ。
全なる一に合一することは、
ちっぽけな個を捨て去り、安心することである。
そう、目的は安心だ。
外れてないことへの安心だ。
つまりこれ、魚とか鳥とかの群れの感情なんだよね。
群れから外れたら死ぬから、外れたら恐怖が芽生えるようにプログラムされている。
群れに戻ったら安心するようにプログラムされている。
本能でしか生きてないってことだ。
ネットの発達で、
中世に戻ってしまったと僕が議論するのはここだ。
中世、人間と動物を分つのは何か?
と議論された。
神を信じるか/信じないかとされた。
神は今でいう科学や、倫理や、自我意識なども含んだものだったので、
つまりは理性こそが、本能だけで生きる動物と、
人間を区別するものだと言われた。
科学が進み、神は否定され、
倫理は法律へと集約した。
その理性、近代的自我を、
ネットの発達が奪いつつある。
あるいは、本能的感情すら、
人間は失いつつあるのかもだ。
「これが『泣く』ということか」と。
まるでSFではないか。
ロボットが、「俺は涙を流さないが、
これが『泣く』という感情であると学習した」
みたいな。
付和雷同、キョロ充の極みとは、
己の感情や、心すら、全なる一に明け渡すのか。
周りと違っててもいいんだ。
一人だけ間違っててもいい。
自分が正しいと思うことを貫け。後ろ指をさされてもだ。
間違っていたら謝れ。それでチャラだ。
デジタルタトゥーなんて残らん。謝った事実が残れば。
ただ、自分が正しいと思う心に従えば。
この「正しい」かどうかに不安があり、
群れからはぐれる恐怖が勝るのだろう。
「本はベストセラーしか読まない」という馬鹿を見たことがある。
「一番売れてるものが一番うまいものさ。
それはマクドナルドとコーラだ」という皮肉がある。
人間にとって一番大事な、
「自分自身にしかない、独自の感覚、独自の感性、独自の考え方」
を拒否するとそうなるのだろうか。
親から評価されることだけを目的に育ち、
反抗期を経て組織に評価されることだけを目的に生き、
SNSでいいねをもらうことだけを目的に生きると、
全なる一に補完されてしまうのだろうかね。
それは、操られているのだよ。
その糸を全部ぶった斬って、
何もかも一人で判断することをしてから、
真の市民生活がはじまるのだ。
そうした、
自由な思想を持ち、
他人の自由権を認め合う、
寛容なる社会こそが、
人類のユートピアであるとされた。
僕もそう思う。
ところが、全なる一に合一しようとする、
ディストピアがここにある。
魚の群れへ人間が戻っていく様を、
言葉を持って観察できるわけだ。
風に吹かれてコロコロかわるやつは、
風見鶏と同じだ。
どんな風が吹いても、いなして進むことが、
個人の在り方だと僕は思うが。
別の角度から見る。
ネットの意見は、ある程度つくれる。
お金をかけてサクラを投下すればいいからだ。
あるいは、統計を恣意的にやる方法なんていくらでもある。
統計学をきちんと学んでいる人
(中心極限定理を理解するレベルでいいや)なんてほぼいない。
期待値とか有意をちゃんと説明できる人は少ない。
だから、悪意があればいくらでも誤魔化しが効く。
「調査にも出ている」論と、
「その調査は妥当ではないので棄却」論では、
後者が弱い。理解されないからだ。
つまり、科学的反論を、数で封じ込めるやりかたがある。
ガリレオまで戻ってしまったんだよ。
ランサーズみたいな阿呆な組織は、
むしろ「ネット工作は阿呆しかいないぞ」と、
油断させるためにあるのかもしれないと僕は思う。
陰謀論が阿呆なのが多いのは、
陰謀なんてないよ、と思わせるためだ。
つまりピエロを出すことで隠れ蓑にするんだね。
食べログが暴露される前は、みんな食べログを信用してたじゃない。
じゃ今、Googleマップが信用できるのかね。
ネットを利用した、流行をわざと仕掛けることは、
ある程度できる。
それでもその流れに乗れば間違いないと言う、
魚の群れのような生き方もあるだろう。
僕は人間なので、その魚を網で掬って食べる側に回るだろう。
「正解」がないことに耐えられない人が増えた。
人生とは、正解のない問題に正解を見出すことだと僕は思う。
すでに正解があることなんて、おもしろくもなんともねえよ。
2020年11月05日
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