2020年11月10日

ストーリーは母型の組み合わせ

長いストーリーはどうやってつくるか。
プロットで組み立てていくのはたしかだが、
それはマクロ構造だ。
ミクロ構造で見ていくと、
実はどこにでもあるパターンで書かれていることがわかる。


つまり、シーン単位のものでは、
どんな優秀な脚本も、
そう違いはないと僕は思う。
どこかにあったパターンを応用しているにすぎないと思う。
それが累積したときに、大きなうねりになり、
そこに我々は大きなストーリーを感じるようになっていると思う。

先日書いた100分のストーリーは、
大きくは新しいパターンのシチュエーションなのだが、
細かいシーン単位に分解すると、

・欠点を指摘する
・言いにくいことを言いだす
・誘うが無視される
・もう我慢できないから文句を言う
・それを嗜める
・やりたいことを言って頼む
・久しぶりに会って旧交を温める

などの、どこにでもあるシーンの集合体である。
シーン単位では、
どこかで見たようなものでしかないのだ。

しかしそれらが新しいシチュエーションや、
新しいキャラクターによって演じられると、
新しい味を帯び、
積みあがっていくと、うねりのある長いストーリーへと変貌していくのである。

最後は親子対決になるのだが、
親子対決自体は、
古今東西の物語でよくあるパターンだろう。
最後和解して抱き合うことも、よくあるパターンだと思う。
しかし長い積み上げを経てくると、
これはオリジナルなシーンのように思えるものだ。

ミクロレベルでは、
よくある脚本に過ぎないのにだ。


つまり、
ストーリーはマクロであり、
部分部分のミクロ部分は、よくあるパターンの集合体に過ぎないということだ。
遺伝子結合自体はよくある形だが、
全体を見るとオリジナルな人間になっているような、
そういう形かもしれない。

ストーリーはひとつのシステムである。
ミクロだけ見ると、
よくある段取りでしかない。
それは、人生の一場面だけを切り取っても、
よほど変わったものなどなく、
平凡なよくある場面しかない、
ということに似ていると思う。

問題は、それらが積みあがってきたときの、
「平凡な段取りなのに重大な意味を持つ」
だろう。

たとえば第二次大戦の、
「ポツダム宣言を受諾する」というのは、
マクロでみるとものすごく大きなストーリーではあるが、
そのミクロの場面を見ると、
会議室で出された書類にハンコを押すだけだ。

「ハンコを押す」シーンなんて、
古今東西百万あるだろう。
それだけをもってこの場面が重要な意味を持つことを表現できるわけがない。
しかし文脈によって、
この場面が歴史上重要な転換点になることが分っているから、
平凡な調印でも、
ストーリー的には最重要に「見える」のだ。

つまりこれは、
場面は平凡でもストーリーは非凡であるということだ。
すなわちモンタージュ効果である。

平凡な芝居でも、
文脈があればすごい芝居に「見える」のが、
モンタージュである。

「日本一売れている漫画家が、円を描く」
という場面は、
「ただのおっさんが円を描く」
という場面でしか表現できない。
そこに「日本一売れている漫画家」ということが加わっているから、
そのどこにでもある場面が急に凄味を増すわけだ。

これがモンタージュ効果だ。
文脈があると、平凡な絵が意味を持つようになる。


逆に、
脚本とは、平凡な絵の集合体に過ぎないということである。
これに意味をあたえ、
特別な瞬間になるのは、
文脈のほうなのだ。
その文脈をストーリーと呼ぶのかもしれない。

単純に「手をつなぐ」という場面でも、
そこにものすごいラブストーリーがあれば、
急にものすごい場面になるに違いない。

単純に「食べている飯をこぼす」という平凡な場面でも、
そこにものすごい文脈があれば、
決定的な場面になってしまうかもしれない。


シーン単位では、
とてもよくある、
ふつうの場面しか連なっていない。
それが連続したとき、
文脈によってものすごいストーリーに見える。

脚本とはそういう構造をしている。



あなたが書くシーンを物理的にみると、
どこにでもある平凡なシーンが書かれているだけである。

誰かが誰かに何かを言うとか、
誰かが誰かに何かを渡すとか、
隠されていた真実を言うか、
誤解だったと謝るとか、
誰かを呼びに行くとか、
そういうものだ。
そういうよくあるシーンをちゃんと書けさえすれば、
シーンは埋まっていくんだよ。

それが連なってものすごい文脈になっているかが、
ほんとうは重要なのだ。


あなたがものすごく新しい、
すごいストーリーを書いたとしよう。
そのシーンシーンは、まったく見たことのない、
新しさに満ちているのだろうか?
僕はそうは思わない。
すごくよくあるシーンで構成されているだろうと、
僕は予想する。

逆に、そういう普通のシーンがしっかり書ける実力がないと、
普通にストーリー進行などできないのではないかと思う。

特別なのは文脈である。
シーンではない。


この、普通のシーンを、シーンの母型ということにする。
つまり、
ストーリーとは、
長い文脈を、母型をくみあわせて表現するしかないのである。
新しい母型はそんなになく、
おそらく母型は有限個だ。
100なのか1000なのかは分らないが、
1億ほどはないだろう。

それらを組み合わせて、
長い長い紡ぎをしていくこと、
描くべき文脈に応じて適切な母型を選びだせることが、
ストーリーテラーのすることだろう。

つまりあなたは、どんな母型のパターンでも書けるようになっているべきだ。
その持ちパターンが少ないと、
どんなものを書いても同じ場面しかなくなってしまうだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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