2020年11月09日

リアルとフィクションの狭間

漫画で「これをリアルにしてもつまらんだろな」って要素
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5707458.html

「クラスの大半の女子がブス」に笑った。


後輩の腐女子が、僕が男子校出身と聞いて、
「行ってみたかった…」と興奮してるのをみて、
「大体男塾みたいな感じで、
イケメンは一人もいなくて、
ましなのは固まって軽音楽部やって、
隣の女子高とやりまくってて、
華奢でアンニュイなBLとかなくて、
あ、でも一人ガチホモいたわ」
とリアルなことを教えてあげたら凹んでいた。

死体蹴りに、
「女子高だってブスばっかでくさいじゃん」
とリアルなことを言うと、ぐぬぬと納得していた。

そんな感じだ。
女子高も男子校も、いい匂いが漂ったり、
爽やかだったり、禁断の恋の匂いが仄かに漂っているわけではない。

それはフィクションである。

つまり、フィクションには仄かな願望が見え隠れする。
それで釣るのがフィクションという願望実現装置だ。

それが唐突で意味がないならば、
ご都合主義とかリアルを知らないと非難され、
リアルな空間の中に、
うまく組み込んでいくと、
名作とかリアリティ溢れる、になっていく。

同じ願望を描いていても、
その埋め込み方、扱い方で変わってくる。


願望は蜜の味だ。
誰もがのび太みたいにぐうたらで万能機械に助けて欲しい。
それをフィクションの中で、
どうリアルに描いていくかが、ストーリーテラーの腕である。

(ドラえもんの場合は、
「そのぐうたらを治しに来た」という名目と、
「ぐうたらがゆえに最後は破滅してぎゃふんとなる」
というダメだこりゃ結論のために、
すべての設定があると考えるわけである。
つまりドラえもんとは、
「ぐうたらを利用した万能機械に頼った末のバッドエンド」
という優れた社会風刺作品であるといえる。
ギャグマンガの形をしているが。
ところでGAFAは、おっと誰か来たようだ)


芯にある部分は願望でもいい。
それを包む衣が、リアルの顔をしているべきだろう。

クラスが全員美女で、
屋上があいてて、
熱血な教師がいる世界は、
衣のない願望でしかない。

それが成立している理由を作れば、
それは存在できるかも知れない。

(例:
このクラスは芸能特進コース、
屋上は市の条例であけることになった(火災で締めてて誰か死んだので)、
その教師は熱心さで前の学校をクビになり、
自分の方針を疑いながらももう一度試すことにした、
などなど)
posted by おおおかとしひこ at 14:32| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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