2020年11月18日

人格分裂の過程を修正する

キャラクターに関するリライト。


僕は、物語というものは、
自分の中の人格分裂現象だと考えている。

自分の中の○○役的な人と、
○○役的な人に分かれて、
争うようなものであると。

それが、「自分とその他」にしか分化できていない未熟なものが、
セカイ系やメアリースーの、
僕とビッグマザーの主観的世界であると。

短編だと人格分裂する前に終わってしまう気がする。
あるいは、「社会的役割」までで、
人格そのものまでいかない時が多い。

社会的役割とは、
たとえば「父親」というキャラクター、
「医者」というキャラクター、
「刑事」というキャラクター、
「部長」というキャラクター、
「恋人」と言うキャラクター、
などの、「その人そのもの」ではなく、
「その人の社会的役割」しかキャラクターにないものを言う。

短編だと、
「父と息子の話」とか、
「医者と患者の話」とか、
「兄と弟の話」とか、
「駅員と迷子の話」とか、
個人に深入りする前に、
社会的役割同士の話になってしまうことが多いと思う。


長編であればあるほど、
社会的役割と個人の両方を描くことが多い。
また、社会的役割は複数あることもある。
家庭では良きパパで、
会社では微妙な立ち位置のリストラ要員であり、
趣味の世界ではかつて優勝したすごいやつであり、
愛人の前ではイキリマンであり、
ネットの世界ではクソリプマンであるが、
本人の人生は実は…
なんて感じだ。

こうした社会的役割の枷を外したところに、
本人自身の個性や性格や人生観や価値観があるわけだ。

で、
長編を描けば描くほど、
登場人物の数は増える。

少なくとも対立する二人は必要である。
仲間や親友や恋人などを加えて、
僕は長編の登場人物は5〜6人がいいのでは、
という仮説を唱えている。

仮に5だとすると、
つまりこれは、
自分の人格を5に割るということだ。

Aぽい自分と、
Bぽい自分と、
Cぽい自分と、
Dぽい自分と、
Eぽい自分が、
会話したり、反発したり、冗談を言ったり、
対立したり殺しあったりするわけだ。

キャラクターをうまく掴むには、
どれだけそのキャラクターの設定を読み込んでもダメだ。

「そのキャラクターに似ている自分の部分」を発見しなければ書けない。

男性作家が女性キャラを書けなかったり、
またその逆があるのは、
異性は別物と考えてしまい、
自分の中にある異性的な部分を発見できてないからだと、
僕は考えている。

(僕の描く女性キャラは、やっぱり僕に似ているわけだ。
姫子のほんわかだけどまじめなところとか、
蘭子の忠犬的なまっすぐなところとか)

そのキャラクター的な自分の部分人格同士の、
いさかいごとこそが、
物語の正体ではないかと僕は考えている。


つまりは、
精神分裂症と、紙一重の狂気だと考えている。

(完結まで書きなさい、という教えは、
完結させることで話を終えて、
人格統合して現実に戻ってきなさい、
ということでもある。
ずーっとAとBとCとDとEが脳内で喋り続けることを、
物語完結で終了させるのだ)



で、ようやく本題。


その人格分裂が、物語序盤では微妙だったりすることが多いのだ。
書いているうちにそのキャラがうまく立ってきて、
後半は滑るように書けている経験は、
よくしたことがあるだろうが、
それは俯瞰してみれば、
「途中から分裂がうまくいき、
分裂がうまく行ってから分裂自我として固定した」
というわけだ。

「序盤はキャラが定まっていない」
という現象は連載漫画でも良く見られるが、
それはこうしたことが原因であると考えられる。
「キャラが入っていない」なんて言い方もあるけど、
実はそうではなく、
「そのキャラへの分裂がはっきりしていない」
だと僕は考えている。


そしてリライトの本題だが、
序盤の、まだ分裂過程にある状態を、
分裂し切った状態で書き直すべきだ、
と言う話である。

最後まで書いてからリライトしてもいいし、
途中で分裂が上手くいったなと思ったら、
戻って書き直してもいい。
(このときに手書きだと超楽)


今、すべて書き終えたあとでのリライトを述べると、
ファーストシーンから第一ターニングポイントあたりまでは、
キャラがまだ確立してないことが多い。

あるいは、初登場は曖昧になっていたりする。
(刑事役ならば、「刑事という社会的役割」しかしてなくて、
「そのキャラが刑事という仕事をしている」のようにはまだ描けてないんだよね)

それを、
はっきりくっきりと、
キャラを書き分けていこうぜ、
というのがこのリライトの目的である。


おそらく書いた頃の記憶があるから、
「そうそうこの時まだあいまいで、
このキャラとこのキャラの区別は自分の中でもついてなかったな」
とかあると思う。
それを明確に人格を分けて、
はじめからその人格同士が対立したり一緒にいたりするようにされたい。


とくに序盤はキャラクター紹介でもあるから、
「私○○です!こういう性格!」なんてことにならずに、
あるエピソード内でその人の第一の特徴がでるように描いて行きたい。

例:車に轢かれそうになった子供を助ける場面で、
冷静な判断力を示してもいいし、
向こうみずなところを示してもいいし、
金に打算的な行動をすること(金持ちを確認)を示してもいいし、
周りが見えてないところを示してもいいぞ。
「子供を助ける」即「優しくて行動力がある」とは限らないわけだぞ。


こうした、
分裂後の人格たちを、
どうファーストエピソードに入れ込み、
かつ事件を発生させ、
興味や感情移入に引き込んでいくか、
(全員をいきなりは無理だから、
主人公にメインスポットを当て続けながら、
誰を順番に引き込んでいくか)
を俯瞰しながら、
リライトしていくといいだろう。



あなたの人格分裂過程など、観客はどうでもいい。

見たいのは、
複数のキャラの立った人格の、
揉め事である。
posted by おおおかとしひこ at 00:02| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
オカルト界隈で、自分の架空人格を作るタルパという技術があるそうです。もとはチベット密教由来のもので、現在でもタルパをしている人はそこそこ(日本でも)いるらしいのですが、彼らも優れたクリエイターの資質があるのだろうか?と記事を拝見して考えてしまいました。
改めて思うと、作者の分身ともいえるようなキャラが揉めている状態というのは不思議ですね。かなり精神に負荷がかかりそうだし、物語を書き終えたあと作者の感情や人生観に変化が起きそうです。当たり前かもしれませんが作品は不可逆のものとして生み出されているのだなと感じます。
Posted by やどかり at 2020年11月18日 13:03
>やどかりさん

僕は大学のころまでチベット瞑想と関係の深い、
道教の仙道やってたので、タルパについては理解しています。
(仙道では出神といいますね)
ついでに精神分析学もかじってたので、
結局物語とは多重人格行為では?と思うようになりました。
イマジナリーフレンドとかも似たようなものだと考えます。

最近の脳科学の知見によれば、
人が思考するときに、関連のない複数の脳の箇所が同時に発火することが確認されています。
複数の反応系があり、それらを「意識」が統合して判断しているそうです。
それが互いに通信ができなくなり、統合(わたしはひとつづきの一人である)に失敗したものが、継続的に不可逆的につづくのが分裂症(多重人格障害)と考えるようになりました。

セックス中でも、S気を出したりM気を出したりなど、
人格や好みは入れ替わるものです。
それ自体はふつうに起こっていると考えます。

つまり物語とは幼少のごっこ遊び(一人n役)なのです。
それをリアルに構築するかしないかだけの違いで、
「元に戻ってくる」も含めて技術だと思います。

「元に戻ってくる」に失敗した作家はそこそこいると僕は考えています。
だから、「下手でも完結させな」というのは、
これらを説明しなくていい、手っ取り早いアドバイスだと僕は考えていて、
このブログではだいたいすっ飛ばして完結だけはさせなさい、
ということにしています。

深淵に潜る→地上に出る、を、
段階的に徐々に深くしないと、
潜水病になっちゃうと思います。
新人に短いのを何本か書かせるのは、経験的なその防止策だと思われます。
Posted by おおおかとしひこ at 2020年11月18日 13:54
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