2020年11月22日

完璧な人間はいない

わかっているが、それを表現として落としていくのは難しい。
逆に、
「限界が色々ある」を考えたほうが表現になるかもしれない。


物語を書く動機を考えると、
「全能感を満たしたい」という幼児的な欲望がある。
それは「ある」ということをまずは認めることだ。
しかしそれは幼児的だから、
上手に排除するべきだと考えることだ。
(排除せずに、幼児たちが共有してわいわいしているのが、
なろう系や一部のラノベだと僕は思っている。
全部見ているわけではないので、
違うかもしれないが)

全能感を満たすキャラとしてよくあるのが、
最強設定であったり、万能であったりすることだ。
まずそれをどういうキャラなのか、チェックしたまえ。
それが主人公だったら、
幼児的全能感を満たすためにそれを書いていることがばれてしまっていて、
共有するべき客観性のある物語になっていない。

一部にしか出てこないキャラだったら、
それが世界の限界を示すから、
まあ許容範囲だろう。
(例 聖闘士星矢の一輝。たいがい飽きるけど)


さて、では、
万能、全能ではなくするにはどうしたらいいか。
人間として描くにはどうすればいいか。
単純に限界をつければいい。

それも、得意なことで限界をつくるような、
一次元的なキャラクターにするのではなく、
「これは得意だが、あれは苦手で限界がある」
のような、多面体なキャラに仕上げるとよい。
「道具をたくさん持っているが、ネズミには弱い」
などが好例だろう。

「道具をたくさん持っているが、道具は一日三個までしか使えない」
などは面白くない。
その制限内でストーリーを工夫する手もあるが、
単純に人間的な魅力がない。

「数学は得意だが算数(四則演算)は苦手」というキャラより、
「数学は得意だが、体力はない」
のほうが人間として普通だ。
(だから共感を持たれやすい)

限界をつくるのはキャラクターの設計である。
そしてそれはストーリーに反映されない限り、
なかった設計と同じだ。

そしてその苦手な要素は、
必ず克服する場面がある。
それで成長や限界突破を描けるからだ。

体力がないのが限界ならば、
徹夜にどうしてもなる場面や、
走って何かを届けなければならない場面が必ずあるというものだ。
それを示すことで、
逆境やその克服が描きやすくなるだろう。

つまりは、
単純にキャラが凸凹しているだけでは面白くない。
それはただの設定書に過ぎない。
その凸凹が、ストーリーの凸凹とかみ合うときに、
面白くなってくる。

どういう凸とどういう凹があるべきか、
それを考え出すのはセンスだ。
人間とはどのようなものか、
そういう観察、人間観が出る。
「道具とネズミ」の例は漫画的だが、
もっと突き詰めた人間観はあってもいい。
「法律や道徳的なものには詳しく、厳密に適用するものだが、
それは他人へのことだけで、
自分には適用されない」
なんてことは、現実の人間でもよくあることだからね。

ざっくりいうと、どこかが抜けている。

それが人間であり、
それを利用したり、その穴をふさごうとすることが、
ストーリーというものだ。

つまり、完璧な人間はいないし、
世界は完璧ではない。
もっというと、
穴のある人間ばかりで、
世界は穴だらけで、
ストーリーはその穴を利用する。

人間にも限界があり、世界にも限界があり、
それを許容したり前提としたり、利用したりしてストーリーは進む。

そしてそれはご都合のためでなく、
人間の本質の描写や世界の本質の描写に使われ、
あまつさえテーマと関係することがベストだろう。

全能感を満たすためのストーリーが、
いかに幼稚かわかると思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:57| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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