が面白かった。
http://dupler.co.jp/eng_school/ここが変だよ学校英語/ここが変だよ学校英語(002):「述語」vs「動詞」/
結論から言うと、
日本語では述語(文の結論になる語)は、動詞以外の品詞もありえるが、
英語では述語になる語は動詞しかないため、
述語と動詞が混同されている、という話。
だから英語のそれは、「述語動詞」と呼ぶべきだと。
(でも二熟語の複合語なので、省略されて動詞呼ばわりされるのがオチだろう。
せめて述詞などと一概念に畳み込むべきだ)
英語では、
一文の中に動詞は一つでなければならない。
ということは、
英語とは、
常に一文一結論を出し続ける言語のことである。
実に明快だ。
すべての文は毎文結論を出して、
その結論は次の文へ引き継がれ、
それが変形、強調、反対されるように、
そもそも言語が出来ているわけだ。
これは、
ハリウッド映画のシーンの方法論である。
ハリウッド映画の方法論では、
1シーン単位で、
常に結論を出して、
変化があり、
ターニングポイントがあって焦点が変わり、
次のシーンへ繋ぐべき、
と教えることが多い。
つまり、一文が1シーンに相当する、
と明確に考えるわけである。
その結論=述語が、動詞で表現される、
つまりアクションで示されるから、
ハリウッド映画は強いのだ。
英語の論文、英語の記事も同様で、
一文単位で結論を出して、
次の結論へとつないでいくことが、
英語で文章を書くと言うことだ。
しかるに日本語はどうだろう。
動詞で示すどころか、
一文に一つ動詞がなきゃいけないルールはない。
文と文の境すら曖昧で、
ぬるぬると膠着語で繋いでいくのが日本語という鵺である。
日本語で文章を書く時に、
「毎文結論を入れること」
なんて枷を課したら、急に文章が書けなくなってしまう。
日本語はそんなに論理的に書くようには出来ていない。
外交における交渉ごとが弱いのは、
僕は完全にこの言語の論理性、結論性の違いであると考えている。
日本語は結論を明確に出し、
それを論理立てて説明するのにむいていない。
「そんなこといわはらんと、ぶぶ漬けでも食べておくれやす」
と断る文化が最高の文化である。
外堀を埋めて真綿で首をしめ、
自分では何も言わずに、
顔を立てた相手から言わせるのが日本の文化であり言語である。
(顔を立てるとか、顔を潰さないように、
が日本の交渉ごとの基本スタンスであり、
論理的結論の妥当性の議論ではない)
で、本題。
それが、脚本スタイルにも表れている気がする。
日本の脚本は、ぬるぬるしている気がする。
「忖度してよ」「わかってよ」
というものが多く(メアリースー)、
「これこれこうであるから、こうである。
したがってこのような事が断言できる。
なおこの議論の範囲はここからここまでである」
というようなものはない。
ただ、後者の映画のほうが、僕は面白いと追う。
そういう脚本を書くならば、
英語の一文一結論を見習うといいかもしれない。
時々脚本は理系のものだというけれど、
理系の忖度なしで論理立てて話すところは、
英語の論文に構造が似ていると思うよ。
(だから論理立てて話す人は、
忖度日本社会から嫌われがち)
2020年11月22日
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