2020年11月29日

主人公は半歩先にいる

ストーリーというのは、
ごちゃごちゃした状況ほど面白い。
切羽詰まった状況ほど面白い。
我々観客は、そのピンチを、右往左往しながら楽しむのだ。
その時主人公はどこにいるべきか?
観客と同じ目線でよいだろうか?


僕は、主人公は、その半歩先にいるべきだと思う。

観客と同じ目線にいると、
観客と同じ混乱、同じ動揺、同じ失意、同じ絶望の目線になってしまう。
それでは問題は解決できない。

主人公は、観客より少しだけその問題解決にモチベーションがある人間である。
もちろんストーリーの示す状況に、
混乱、動揺、失望、絶望するものではあるが、
諦めないことに関しては、観客以上である。
「じゃあお前やってみろよ」という当事者なのだ。
観客は当事者じゃないからこそ、
ストーリーを楽しめる。
「ああ当事者でなくてよかった」と思えるから、
心から楽しめるのだ。
(もし東京オリンピックを計画し、成功に導く映画があったとして、
僕らは当事者じゃないから無責任に見てられるだろう。
しかし当事者だったら、まともに見れないのではないか)

だから当事者は、責任がない分、
勝手に感情で反応することが可能で、
その感情を楽しむことがストーリーを楽しむことである。

だが主人公は、その感情に流されていては、
問題の解決ができなくなってしまう。
当事者であり、解決責任者であるわけだ。

だから主人公は、
そのような状況に陥っても、
観客より少しだけ高い目線で全体を見ていることだろう。
半歩前を見ていることだろう。
感情に溺れながらもとっさに対策を考え、
次への布石を打つだろう。

だから展開する。

ただ状況に溺れ、感情をむき出しにして吠え、
手足をじたばたさせても問題は解決しない。
火に油を注ぐだけだ。
そうではなく、
冷静に次へ向かって行動しなければならない。

その距離感が、だいたい半歩くらいかな、
というのが本題だ。
観客よりはるかに賢く、
はるかに冷静で、
はるかに俯瞰的、
つまり何歩も先にいては、
観客はおいてけぼりである。

観客より遅れていては、観客のほうが先に解決策を考えだしてしまい、
ぐずの主人公にイライラするだろう。

半歩先にいる感じ。
それが観客を上手にリードすることになる。

つまり、主人公はリードしなければならない。
「リードする人」という意味で、
リーダーでなければならない。

プロジェクトのリーダーとか、
班長とか、
偉い人である必要はない。

「ものごとを進める人」の意味で、
「観客をついてこさせる人」の意味で、
リーダーでなければならない。

あなたが男性ならば、
女性をやさしくリードしなければならない場面に、何度も出会ったことだろう。
それがうまく行ったかどうかは別として、
主人公は、
そのように観客をな優しくリードしなければならない。


「半歩先」の距離感がちょうどよくて、
主人公は、
観客より少しだけ理性的で、
観客より少しだけ感情に溺れず、
観客より少しだけ熱心で、
観客より少しだけ目線が前に向いている。

そういう人だからこそ、
観客は安心して感情移入できるわけだ。

それが途切れるとき、
つまり半歩の距離感が崩れたときが、
観客の感情移入が遠ざかったとき、
つまり、
「詰まらない」瞬間ではないかと思う。

もちろん主人公も人間だから、
つねに半歩先をキープできるわけではない。
それも面白く揺れるべきだと思うよ。
観客は冷静なのに、
主人公が激高したり、絶望していたりすれば、
観客は、これまでの感情移入がうまくいっていれば、
応援をはじめるはずかだらかね。

観客にとっては、
主人公は他人でもあり、リーダーでもあり、
自己投影でもあるわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:47| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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