主人公の定義は、「作中最も試練が大きい者」と言えるかも知れない。
もし最大の者が別の者になっていたら、
それはメアリースーに支配されている。
物語とは、問題を解決することだ。
それは内面の問題だろうが、
外面の問題だろうがどちらでも良い。
ただ、内面の問題は外部に出てこないため、
映画では描くことができない。
小説ならば一人称で心の中を語れるから、
心の内面を描写して、
「このように考えている状態から、
このように内面の試練を乗り越えて、
このように考えるようになった」
などと説明できるが、
映画はそうではない。
映画はカメラで撮れることしか撮れないため、
心の中を撮ることはできない。
だから、
あるアクションをしている様を見て、
観客が察することしかできない。
胸を押さえてうずくまるならば苦しそうだとか、
あるいは、
「東京に行ってミュージシャンになる」と言った男が、
毎日バイトで心をすり減らしている様を見て、
彼の気持ちを察するとかだ。
つまり映画とは、
点による芝居(仕草。狭義の芝居で役者の領域)、
線による芝居(文脈。広義の芝居でシナリオの領域)で、
心の内面を表現する。
だから、
映画における内面の問題の解決は、
ミュージシャンの話ならば、
だとえば「オーディションを受ける」とかの「事件」を通して、
たとえば「合格」などの、
「結果」を通して描かれる。
その結果という文脈で、主人公の内面の変化、
たとえば自身の回復を察することが出来るわけだ。
ただニンマリする(点の芝居)だけでは、
なぜニンマリしたのかまったく分からないが、
オーディションを勝ち抜き、
苦しい練習が実り、
バイトで苦労したことを生かした曲を作ったときに、
みんなが共感する曲ができ、
それで合格した文脈があれば、
満足した笑顔をすれば(前の芝居)、
それは彼の自信が回復したことを示すわけである。
つまり、
映画とは、
内面の物語を、
外面の、カメラで撮影できる、問題と解決に、
変換することで示すメディアだ。
だから、
問題解決の、作中で一番大きな規模を解決する人間が、
主人公である。
なぜなら、
内面の変化に我々は感情移入して見るわけであり、
映画とは、内面の物語を外面の問題解決という前の芝居で示すからだ。
もっとも感情移入するのが主人公であるべきで、
脇役に感情移入するならば、
その人を主人公にするべきである。
ルークスカイウォーカーよりもダースベイダーが感情移入できるのならば、
ダースベイダーを主人公にするべきだ。
(それはプリクエル三部作として映画化された。
彼の悪堕ちに感情移入できる名作ではなかったが)
で、
つまり主人公とは、
作中で、最も試練を乗り越える人、
と言う風に定義できる。
内面の試練をどう乗り越える?
最初にどう思っていて、最後はどう思った?
その心の変化に、どんな考えにたどり着いたことで、
そう思うようになった?
この時、
内面の変化のきっかけが、
「私は愛されていた」などの自己承認欲求を、
「他人から与えられる」のが、
メアリースーという御都合主義である。
私は愛されていない
→実は愛されていたのだ、最初から
→よかった
だと、主人公は試練を乗り越えていない。
だから詰まらないのだ。
自分の人生では嬉しいことでも、
他人の人生では「しらんがな」になることに注意せよ。
ここは、
私は愛されていない
→他人に愛されていることがわかった(御都合主義)
→そのように愛するにはどうすればいいか考える
→その人のように生きよう
→それは今の自分にはとても辛いこと。
たとえばコンプレックスや卑屈さが邪魔をし、
大らかな自信が持てない
→勇気を持って克服する(試練)
→その人のように他人を愛することが出来るようになる
→そして皆からも愛され、最初の問題はクリアされる
のようにしなければならない。
メアリースーは、(御都合主義)と書いたところで終わるからダメなのだ。
それによって気づきを得て、
試練を乗り越えなければならない。
主人公とは、
もっとも大きな試練を課せられた人のことを言う。
そして、
その内面の試練を、
外面的問題の解決で描くのが、
映画という表現形式である。
お芝居(点、線)を組み合わせて、
ミュージシャンの例のように語るのである。
主人公とは、
作中もっとも大きな外面的問題を解決した人で、
それによってもっとも大きな内面的試練を超えた人で、
それによって内面がもっとも変化した人のことをいう。
スターウォーズ1(Ep.4)では、
ルークは大学に行きたいが行けない、アイデンティティーの不安な若者から、
デススターを破壊した、「空を歩くような活躍をした英雄」に変化して、
内面の不安を克服した。
ダースベイダーよりも偉大なことをしたわけだ。
だから主人公だ。
だが2、3(Ep. 5、6)では、
内面の試練はなにもない。
ヨーダの修行はよくわからず、
私たちの理解できる内面の試練はなかった。
(外面的な超能力ゲットイベントでしかない)
だから主人公が不在の映画になってしまっている。
その中で、
「私は父だ」と告白するダースベイダーの心の葛藤が最も大きいため、
ダースベイダーが主人公に見えてしまっているのが、
ルークが主人公たり得ない理由だ。
ルークは父でありかつ悪玉を切る試練が、
どのような内面の成長になるのかが、
全く定義されていないからである。
つまり、
映画において、
外面的問題の解決は、
主人公のどのような内面の変化の象徴になるか、
観客はわかってみている。
わからせなければならないわけだ。
メアリースーがなぜクソかというと、
これらのことを丸無視して、
御都合主義で愛されておしまいーになっているからだ。
カメラで撮れる物語形式になっていないことに気づかれたい。
カメラで撮れる形式とは、
「試練を乗り越える」だと思う。
それは問題の解決という具体的な外面を、
撮影することで得られる。
映画に一人称はない。
心がない者に心を見出す作用(感情移入)を用いて、
心を想像することが、映画である。
だから「私はこう思っている」という説明場面ほど、
ダサいものはないわけだ。
ミュージシャンの例で言えば、
最後に微笑みさえすればおしまいでよく、
「いやあ苦労したバイトも全部意味があったなあ」
なんて言わなくてもいいわけだ。
なぜなら、「この試練を超えた者ならば、
誰もがそう思う」と皆理解するからである。
2020年12月01日
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