2020年12月04日

言葉は記憶に残らない

不思議な脳の現象。
どんなにこっちが言葉を工夫したって、
人は一字一句など覚えられないのだ。


名台詞を書いたり、
うまいこと説明したと思ったり、
ちゃんと言葉に気を使ったりすると、
それをその通り覚えてほしいという欲望が出てくるものだ。

しかし、それは期待しないことだ。
せいぜい、引用するときに、
正確にしてくださいとお願いするにとどまるだろう。

自分の例を思い出してもわかる。

昨日、あの人の言ったことを、
一字一句再現できるだろうか?
ずいぶん前に言われたことを、
正確に覚えているだろうか?

よほど強烈なものでない限り、
ほとんどの言葉というものは、
正確には脳内に残らないと僕は思う。
なぜなら、それに使う脳の領域は足りなく、
圧縮して記憶領域に格納されるからだ。

何が正確に覚えられるのかは、
人によって異なる可能性もある。

視覚優位な人は絵や色が覚えやすいだろう。
聴覚優位な人は音階やざわめきや声のトーンを覚えているだろう。
触覚優位な人は、木洩れ日の感じや、
寒さや、玉ひゅんな浮遊感を覚えているかもしれない。
あるいは、
総合的に、記号的に覚えているかもしれない。
ピクトグラム的な感覚で、
説明の内容やざっくりしたあらすじを覚えているだろう。

正確な言葉で覚えるより、
それは記憶容量を圧迫しないのかもしれない。

あるいは、
聞いたことを思い出そうして、
大体の意味のことをその場で「つくる」ことをするから、
記憶の中の風景や音や雰囲気は、
記憶から取り出すときに、
そのままではなく、つくりがはいっているかもしれない。

(これが記憶の曖昧性である。
たとえば被験者を集めた交差点でわざと交通事故を起こすと、
目撃者の情報は、その場にいたにも関わらず、
人によって色や音や車種の記憶が全く異なることがよく知られている。
あるいは、初日の記憶と、
何日か経った記憶が異なる人もいることや、
誘導尋問で、記憶が書き換えられる人がいることも知られている。
「わたしは確かな記憶がある」と本人が思っているにも関わらず、
それは正確性が欠けることが、
実験によって確かめられている。
複数の証言者で、共通するものが大きいものが、
確からしい証言である、というだけに過ぎない)


つまり、
言葉は正確に残らず、
大体の意味だけが残り、
言葉は思い出すときに再構築される。

だから、複数の記憶のされ方をしたほうが良い。

強い言葉を言うときは、
強い印象の絵と、
強い印象の音と、
強い印象の雰囲気にするとよい。

雰囲気で僕がよく使うのは夕焼けだ。
寒い日の朝、白い息を吐きながらとか、
クリスマスの前の日とか、
桜が咲くころとか、
誕生日や結婚式とか葬式とか、
非日常の場面が物語で使われるのは、
そうした記憶を強烈にするためでもある。

全裸でちんこと叫び、
金色に光り、
エモい音が流れ、
飛び上がりながら、夕日に照らされれば、
複合的に記憶され、
多少欠けても再構成が進みやすくなるだろう。

視覚、聴覚、触覚、
そして意味。
それらを複合的に使えて、
はじめてシナリオになる。

言葉だけ良いのは、
俳句や小説や演説でしかない。

シナリオとは映画による表現のリストである。

すべてを駆使して、
言葉を届けなければならない。


もし何か足りないのなら、
視覚を工夫する、聴覚を工夫する、
触覚を工夫する、
そもそも意味を整理する、
言葉をもっとよくする、
などを組み合わせて表現に持ち込むと、
より言葉は記憶に深く残りやすい。

シナリオを書いていると、
言葉だけが重要に思えてしまう。
観客はシナリオを見るのではない。
映画を見るのだという意識は、
つねに持っておくべきだ。



以外と不変なのは、
「それを見た感情」だったりする。
悪印象は覆らない、という経験則は、これだと思う。
「詳しくは覚えていないが、なんとなくよかったやつ」
という記憶は、
いつまでも残るだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:05| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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