2020年11月28日

鬼滅に感じる違和感の正体

・敵は鬼畜米英でなく、人間で、
それぞれの事情があり戦争している(視点の複眼性、多様性)
・悪は斬り殺してよいのか?
冤罪の可能性もあるし、悪であれ法に則って裁くべきだ(近代法治主義)
・仮に鬼や妖怪や女や黒人や黄色い人種でも、
生きる権利があり、彼らの生活を等しく尊重するべきである(多様性)
・人工知能や宇宙人は、その「彼ら」に入れるべきか?(多様性のSF、思考実験)

という、近代の「人」や「敵」や「法」や「人権」や、
現代の「多様性」という、人類のたどり着いた「考え方」に反して、
「鬼は切ったろ!」
という、前近代チャンバラに、世界を戻してしまったところ。


物語で、
「強い日本刀を持ち、
平和を取り戻すために、
勇気ある少年が、
大人たちに認められ、
敵である鬼を斬り殺す」
のは、
とても興奮する。

というか、人類の発生段階に、
それが興奮する人種が生き残ってきた
(=平和主義の人種はこの人種に滅ぼされた)
ことは想像に難くないため、
私たちの血の中にある。

だからこの興奮があることは否定しない。

物語とは、その興奮を味わうためにある。

敵を叩っ斬る、悪を斬る、
なんてひどいやつだ、成敗してくれる、
悪の栄えた試しなし、
スカッとしたわあ、
悪を叩く様、最高にカッコいい、
などである。

これを「正義の興奮」と呼ぶことにする。

私たちは正義の興奮のためならば、
いかようにも残酷になることができる。
マリーアントワネットのギロチンに大喝采を送ることができるし、
悪役が左右に真っ二つに切られる様に、
スカッとする生き物である。

これがもし、自分の親や恋人だったら、
という想像力はない。
自分の母親がギロチンにかけられて生首がごろんと落ちる様や、
恋人が風林火山で左右真っ二つになることは、
想像せずに、フィクションに興奮する。

あるいは、
「不倫女」という「悪」を見つけたら、
社会的八つ裂きにしたがる。
ベッキーあたりからそれは異常だ。
人々は、中世から正義の興奮は変わっていない。
SNSは、常にスケープゴートを探しているように見える。


他方、法治や人権思想は、
それを理性の力で食い止めたものである。

どんな人間にも基本的人権がある。
たとえ稀代の大悪人ですら人権があり、
人として裁かれなくてはならない。
悪人だったら何をしてもいいわけではない。

戦争はそれを反省させたはずだ。
敵は鬼畜米英ではなく、
人間だったと、
私たちは同じ人間を鬼だと仮定して興奮していたと、
その誤りを、長いことかかってきて、
学んだはずである。


近代の知性については、
映画「11人の怒れる男」(オリジナル版)が実に秀逸で、
たとえ阿呆でも間違っていても、
発言は等しく平等で、発言をする権利があり、
それによって馬鹿にはされず、
反対意見も賛成意見も等しく発言する権利があり、
それらを統合して、
議論の結論を導こうということが知性である、
(感情的な偏見を覆す有効な手)
というように描かれていて、
僕はこの映画が大好きである。



だが、
その知性は、物語的な興奮の敵なのだ。

物語の興奮は、
「敵を真っ二つにしろ!こいつは許せねえ!」だ。
しかし知性は、
「彼らには人権があり、それを暴力で排除するのは、
およそ前近代の野蛮人である」
と人類の営為を紡いできた。

だから、
この知性のせいで、
逆説的に物語が面白く無くなってきた。

どの仮面ライダーか忘れたけど、
怪人たちをライダーキックで大爆発させてきたライダーが、
ある作品で「逮捕」という現実的な手段に出たことがある。

なるほど、ようやく前近代の正義の興奮を、
近代の知性が覆すときがきたのか、
と僕はとても感心したのだが、
ところが、
これが全然スカッとしない。

知性は人権を守るべきだというのに、
感情は詰まらないと判断してしまうのである。

悪はライダーキックで真っ二つにしてほしいのだ。

これは、愛されキャラベッキーを、
八つ裂きにしたい感情と同じであると、
近代の知性を持つ我々は気づかなくてはならない。



だから、
現代の物語は、
正義の興奮を描くために、
人権のない、八つ裂きにする「相手」を探している。

「ロサンゼルス決戦」で、
相手はついに人間ではなくCGの宇宙人になった。
(侵略者で言葉が通じなく、敵意があるため、
マシンガンで蜂の巣にしなければならない。
これが自分の肉親だったら、
という想像をする必要はなく、
我々はそのマシンガンに正義の興奮を覚える)

トップガン2の敵は人工知能搭載のドローンだと聞いて、
「敵を作るのに困っているな」と思った。

近年の物語の敵は、
「容赦ない、卑怯な、テロリスト」が多く、
いかにも八つ裂きの興奮に相応しい、
正義の興奮を呼び覚ますものになっている。


つまり、
物語とは、
知性を一旦横において、
動物的な、前近代的な、正義の興奮を摂取するドラッグである。
私たちは「やっつけろ!」と暗い欲望を満たすために、
物語を見る。
現実ではやりにくい、暗い欲望を発散するために。

あとは、
正義の理由になる悪を創造できるのか、
が、
物語作家に課せられた宿題になっているわけだ。



さて鬼滅だ。

鬼滅は、これらの議論をする前に、
時代を戻してしまった感じがとてもある。

鬼は悪だ、殺せ、八つ裂きにしろ、
という興奮を消費しているような気がする。

鬼にも正義や事情や優しさや人権がある、
というものを全部すっ飛ばして、
「叩っ切れ!」だけを味わう装置になっているような気がする。

「鬼になってしまった悲劇」は描かれるが、
「鬼から人権のある人にもどる」は描かれない。
「鬼のまま罪を償い、奉公という形で返す」がない。

つまり、「人」と「鬼」は別物として認識されている。

これは、「味方や身内」と「敵や鬼畜米英」
という区分の仕方と、まったく同じなのだ。

つまり、
鬼滅の刃は、人権思想を通過していない、
前近代の作品である。



ここから男女差別をする。

なぜか女性の方は、
一度嫌いになると、二度と味方にしてくれない。
「敵」や「犯罪者」を、蛇蝎のように嫌い、
彼らが危害を加えないとしても半径2メートルに近づいたり、
あまつさえ一緒に飯を食うことを許さない。
彼らには人権があり、
校正の機会が必要だと考えない。
身内と敵の温度差が激しいように思う。

つまり人権思想の逆であり、前近代の見方のような、
人が多いように思う。

鬼滅が女性によって描かれ、
女性に受けているのは、
僕はそうしたことではないかと考えている。


正義の興奮は、血による感情である。
我々は元獣であり、その感情は0にはならない。
それを時々物語で解放して、
終わったら理性をもつ賢者に戻らなければならない。

その、理性と感情の振り子が、
鬼滅には決定的に欠けていて、
鬼滅を面白いという人にも、欠けているように思える。

鬼滅のファンは、ベッキーを八つ裂きにする感情のような人に、
僕には見えている。


鬼滅には人権思想以前の興奮しかない。
僕は、それをとても幼稚なことだと思っている。

LGBT、BLMなどの運動がある。
ゲイや黒人は鬼か?
僕は物語とこれは、繋がっているものだと考えている。
鬼滅は、炭治郎は優しい子として描かれるが、
その他の柱は躊躇せず黒人を殺すわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:47| Comment(4) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
鬼滅は鬼の殺害を
「否定」ではなく「救済」として描こうとしていると思うんですが
そこらへんの強調が足りなかった感じはある。
鬼と化した人間の魂は鬼の呪いによって
永遠に苦しみ続ける、みたいな設定、描写があれば
鬼の殺害にも人権的説得力が出たと思います。
「安楽死」みたいなもんですね。
それこそ「新しい人権」ってやつでしょう。
そういえば最近ニュージーランドで
安楽死が合法になりましたねぇ。
Posted by ジュニチ at 2020年11月29日 21:57
ジュニチさんコメントありがとうございます。

なるほど救済ね。安楽死というのは面白い視点。
(妖怪ものの成仏に似てるのか)

鬼滅の鬼は、伝統的な鬼とは異なり、
あくまで吸血鬼設定なので、
「力が欲しいか」という代償でもないしなあ。

食うための殺人を合法化したなら、
鬼に罪はない気がしますね。

ヒグマ同様駆除の対象という割り切りの物語でもないので、
そういう意味では浅いと思います。
呼吸と鬼は関係ないし…

安楽死を求める敵というのは新しいかも知れないですね。
北斗有情拳しか使えないけど。
Posted by おおおかとしひこ at 2020年11月29日 23:09
ガンダムとか悪にも正義があって
面白いですね
鬼滅が女性にウケた理由は
母性本能くすぐるキャラクターと
協力プレーにあるかなと私は思います
男はタイマンを美徳としてるところがあって
従来の少年漫画は1対1のバトルが多かったけど
鬼滅は鬼1に対して柱複数人で挑んでるので
そこが新鮮でした。
鬼滅はキャラクターが良いですが、珠代さん屋敷までは頭脳戦、以降のバトルは、読者の空想に委ねた技名言い合って回想シーン突入後フィニッシュのパターンだったのがちょっと物足りなかった
炭次郎の活躍、それを褒める反応がもっと欲しかったと思いました。
Posted by 紫 at 2020年11月30日 01:12
>紫さん

>母性本能くすぐるキャラクターと
>協力プレーにあるかなと私は思います
逆に、タイマンばかりやってきた少年漫画は、
近年のハリウッド映画の複数バトルを見てなくて、
進化が止まっていた、という批判すらできると思います。

母性本能くすぐるのは、
男子の僕から見ると、
ぶりっ子に見えてむかつきます。
女子がおっぱいぶりーんが嫌いみたいなのと同じ嫌悪感ですね。
そのむかつきを、これを支持している人たちはわかるかなあ。

作品分析に関してはおおむね同意です。
僕はその外の、
「じゃあなぜこんなにブームになっているのか
/ブームになっていることにさせられているのか」
がとても気になっています。
どう考えてもここまでのスコアを叩き出すスペックの作品ではないので、
ものすごいマーケティングドーピングを感じるので。
Posted by おおおかとしひこ at 2020年11月30日 09:43
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