2020年12月06日

反省会をしよう

全ての原稿がリライトが終わり、
完成を迎えたとしよう。
まずは酒でも飲んで祝おうか。

そのあとやるべきことは反省会だ。
これをやっておくかどうかで、
今後の成長が違うぞ。


ていうか、最近の若いやつは反省会をしていない。
やったらやりっぱなしで、
どう良かったのかとか、次同じことが起こったらどうするべきかとか、
そういうことを話していない。
仕事でもそれはやったほうがいいよ。
直接は役に立たなくても、
自分の体験が体系化されて、誰かに伝えやすい形になることがとても多いから。


脚本家の反省会とはどのようなものか。

まずは、最初のアイデアから最終稿までの、
すべてを一覧してみよう。
僕は、これはすべて紙であるべきだと考える。
なぜなら全てを一覧できるデジタルメディアはないからだ。
比較検討して、全容を把握できるメディアは、紙が一番よい。

最初の一行アイデアは何だったか?
まずはそこに一回戻るのだ。
そこからどう発展させて、
現在の最終稿に来たのか、俯瞰してみよう。

最初の一つのアイデアに対して、
別のアイデアを放り込んだだろう。
一つではたいてい足りないからね。
それはいくつ放り込んで、出来上がったかを俯瞰してみよう。

つまりそれは、
「次思いつくとしたら、何個思いつけば、
この状態に早く行けるか」
ということを見ているわけだ。

たいていアイデア一個ではもたなくて、
別のまったく違うアイデアが必要で、
それは途中でやって来ることもあれば、
「こういうものが必要になるだろう」と予測して、
あらかじめ用意することもある。
その、あらかじめの能力を鍛えるわけだ。
そうするだけで、
余計な試行錯誤や無駄な考えを排除できるからね。

「経験上、こういうのがいると思って」、
という感覚は、こうした反省会という俯瞰で磨かれるわけである。

また、無駄だったアイデアや、
余計だったけど、それが行けると思って飛びついたものの、
やっぱりダメだったアイデアについても思い出そう。
なぜそれがだめだったのか、
なぜそれが良いと思ってしまったのか、
なぜそれを棄却したのか、
などについても整理しよう。

それはどの時点で役に立たないと判断したのか、
についても俯瞰しよう。
つまりそれは、迷路でどこで間違ったのか、
みたいなことを俯瞰しようとしているわけだ。


将棋の感想戦に似ているかもしれない。
将棋だと相手がいるから、
このとき彼はどう考えていたのか、
なんてことが明らかになるけど、
脚本の場合は一人でやっているから、
「自分はこのときどう考えていたのか」
「自分はなぜこう判断したか」
ということを俯瞰すればよい。
今考えれば間違っていたが、その時は合っていると思ったわけで、
それはなぜか、どうしたら次はそのトラップに引っかからずに済むか、
などを反省できるだろう。

最初のアイデアから、
色々なアイデア出しをした、メモがあるだろう。
それらを順番に見ていこう。
途中でプロットを作ったかもしれない。
プロットは何稿かつくったかもしれない。
部分的にプロットを作り直したかもしれない。
あるいは、
登場人物が喋り出すようになってからは、
プロット型式よりも、
台詞としてメモが記録されているかもしれない。

それらを俯瞰してみよう。

どういう経緯で結論にたどりついたのかを見る為にだ。

あるいは、
途中でものすごく面白いことを考えて、
本編に生かしていないものを再発見するかもしれない。
それはサルベージする価値があるならばしておこう。
(ちなみに最近書いたやつでは、
第二ターニングポイントに関して、
アイデア状態だったメモを最終稿に復活させたことがある)

あるいは、「面白かったアイデアだが、本編にあえて生かさなかったもの」は、
何故そうだったのかを、
再び考えよう。
〇〇〇だったから、という明確なものがあればそれでよい。
なんとなく、では反省会にならない。
明確な理由があれば、
それは必要だったのか、わざわざそれを考える必要はなかったのか、
明らかになるからだ。
この回り道は、正解にたどり着くためには必要だった、
というならばそれはしょうがない。
この回り道は結論へまったく意味がないプロセスで、
やるだけ無駄でずいぶん時間と資源を疲労した、
というならば、
「以後それをやらない方法を確立できる」
可能性がある。


創作とは、ランダムに出来るものではない。
やらなくていいことをやらなくていいのなら、
効率が上がり、
より面白いことを考えることにより時間を費やせる。

経験者はある程度の勘があり、
「こっちが正解な気がする」とか、
「こっちに行っても何もない、行ける人はいるかもだが、自分は無理だと思う」とか、
なんとなくのことが分る。
それは、こうした反省会を経て、
次に生かしているからである。

これがなければ、
作者というものは、「単なるランダム探索を当てた人」
というだけに収まってしまうだろう。
あるいは、「全探索を終わるまで粘った人」だけが、
作者ということになってしまう。
(僕は両者とも愚かであると思う)


理想は、
ある程度「行ける」という状態になるまで煮つめ、
途中でも迷わず正解を引き、
必要なところでは試行錯誤して粘り、
それでもトータルで見ると、
大体最短距離を行っていた、
ということではないだろうか?

「あの迷った三か月は意味がなかった」とか、
「初手のあそこを間違っていなかったら、だいぶ楽になった」とか、
「最後の最後で迷ったのは、自信がなかったからだ」とか、
分れば、
次どうするべきかは自然に分るというものだ。


こうしたループを何度もクリアした者だけが、
「なんとなくこうするとよいと思う」とか、
「こっちは失敗するから、こっちを考えよう」などの、
経験者的な判断力が出来るというものだ。

素人は無知だから、失敗すると分ってる沼に飛び込む。
そういう経験をして、はじめて沼の形を知るわけである。


勿論、初心者のうちはどんどん失敗しなさい。
失敗は発明の母である。
成功しかしない人は、
失敗したときのリカバリーができない。
失敗し続け、成功に転じ続けた人だけが、
リカバリーの方法を知っている。

それは、反省会を何度も何度も何度もした上での、
無意識化された行動になるだろう。

「反省して以後二度とないようにします」
なんて企業の心がこもっていない反省などどうでもよい。
あなたは本気で反省して、
次のトラブルを未然に防ぐのだ。
つまり、反省とは対策とセットである。

しゅんとした態度をとることや謹慎することは、
反省でもなんでもない。
冷静で確実な分析だけが、次に役に立つ反省だ。


これがチームで出来るようになれば、最強のチームになるだろう。
現代社会ではチームを作っては解散させるから、
なかなか反省会が有効に継承されていないが。

こういう時は昭和のやり方のはうが強いね、
反省前提だから失敗も怖くないし、坊主になれば許されるからおおらかでいられる。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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