全ての原稿がリライトが終わり、
完成を迎えたとしよう。
まずは酒でも飲んで祝おうか。
そのあとやるべきことは反省会だ。
これをやっておくかどうかで、
今後の成長が違うぞ。
ていうか、最近の若いやつは反省会をしていない。
やったらやりっぱなしで、
どう良かったのかとか、次同じことが起こったらどうするべきかとか、
そういうことを話していない。
仕事でもそれはやったほうがいいよ。
直接は役に立たなくても、
自分の体験が体系化されて、誰かに伝えやすい形になることがとても多いから。
脚本家の反省会とはどのようなものか。
まずは、最初のアイデアから最終稿までの、
すべてを一覧してみよう。
僕は、これはすべて紙であるべきだと考える。
なぜなら全てを一覧できるデジタルメディアはないからだ。
比較検討して、全容を把握できるメディアは、紙が一番よい。
最初の一行アイデアは何だったか?
まずはそこに一回戻るのだ。
そこからどう発展させて、
現在の最終稿に来たのか、俯瞰してみよう。
最初の一つのアイデアに対して、
別のアイデアを放り込んだだろう。
一つではたいてい足りないからね。
それはいくつ放り込んで、出来上がったかを俯瞰してみよう。
つまりそれは、
「次思いつくとしたら、何個思いつけば、
この状態に早く行けるか」
ということを見ているわけだ。
たいていアイデア一個ではもたなくて、
別のまったく違うアイデアが必要で、
それは途中でやって来ることもあれば、
「こういうものが必要になるだろう」と予測して、
あらかじめ用意することもある。
その、あらかじめの能力を鍛えるわけだ。
そうするだけで、
余計な試行錯誤や無駄な考えを排除できるからね。
「経験上、こういうのがいると思って」、
という感覚は、こうした反省会という俯瞰で磨かれるわけである。
また、無駄だったアイデアや、
余計だったけど、それが行けると思って飛びついたものの、
やっぱりダメだったアイデアについても思い出そう。
なぜそれがだめだったのか、
なぜそれが良いと思ってしまったのか、
なぜそれを棄却したのか、
などについても整理しよう。
それはどの時点で役に立たないと判断したのか、
についても俯瞰しよう。
つまりそれは、迷路でどこで間違ったのか、
みたいなことを俯瞰しようとしているわけだ。
将棋の感想戦に似ているかもしれない。
将棋だと相手がいるから、
このとき彼はどう考えていたのか、
なんてことが明らかになるけど、
脚本の場合は一人でやっているから、
「自分はこのときどう考えていたのか」
「自分はなぜこう判断したか」
ということを俯瞰すればよい。
今考えれば間違っていたが、その時は合っていると思ったわけで、
それはなぜか、どうしたら次はそのトラップに引っかからずに済むか、
などを反省できるだろう。
最初のアイデアから、
色々なアイデア出しをした、メモがあるだろう。
それらを順番に見ていこう。
途中でプロットを作ったかもしれない。
プロットは何稿かつくったかもしれない。
部分的にプロットを作り直したかもしれない。
あるいは、
登場人物が喋り出すようになってからは、
プロット型式よりも、
台詞としてメモが記録されているかもしれない。
それらを俯瞰してみよう。
どういう経緯で結論にたどりついたのかを見る為にだ。
あるいは、
途中でものすごく面白いことを考えて、
本編に生かしていないものを再発見するかもしれない。
それはサルベージする価値があるならばしておこう。
(ちなみに最近書いたやつでは、
第二ターニングポイントに関して、
アイデア状態だったメモを最終稿に復活させたことがある)
あるいは、「面白かったアイデアだが、本編にあえて生かさなかったもの」は、
何故そうだったのかを、
再び考えよう。
〇〇〇だったから、という明確なものがあればそれでよい。
なんとなく、では反省会にならない。
明確な理由があれば、
それは必要だったのか、わざわざそれを考える必要はなかったのか、
明らかになるからだ。
この回り道は、正解にたどり着くためには必要だった、
というならばそれはしょうがない。
この回り道は結論へまったく意味がないプロセスで、
やるだけ無駄でずいぶん時間と資源を疲労した、
というならば、
「以後それをやらない方法を確立できる」
可能性がある。
創作とは、ランダムに出来るものではない。
やらなくていいことをやらなくていいのなら、
効率が上がり、
より面白いことを考えることにより時間を費やせる。
経験者はある程度の勘があり、
「こっちが正解な気がする」とか、
「こっちに行っても何もない、行ける人はいるかもだが、自分は無理だと思う」とか、
なんとなくのことが分る。
それは、こうした反省会を経て、
次に生かしているからである。
これがなければ、
作者というものは、「単なるランダム探索を当てた人」
というだけに収まってしまうだろう。
あるいは、「全探索を終わるまで粘った人」だけが、
作者ということになってしまう。
(僕は両者とも愚かであると思う)
理想は、
ある程度「行ける」という状態になるまで煮つめ、
途中でも迷わず正解を引き、
必要なところでは試行錯誤して粘り、
それでもトータルで見ると、
大体最短距離を行っていた、
ということではないだろうか?
「あの迷った三か月は意味がなかった」とか、
「初手のあそこを間違っていなかったら、だいぶ楽になった」とか、
「最後の最後で迷ったのは、自信がなかったからだ」とか、
分れば、
次どうするべきかは自然に分るというものだ。
こうしたループを何度もクリアした者だけが、
「なんとなくこうするとよいと思う」とか、
「こっちは失敗するから、こっちを考えよう」などの、
経験者的な判断力が出来るというものだ。
素人は無知だから、失敗すると分ってる沼に飛び込む。
そういう経験をして、はじめて沼の形を知るわけである。
勿論、初心者のうちはどんどん失敗しなさい。
失敗は発明の母である。
成功しかしない人は、
失敗したときのリカバリーができない。
失敗し続け、成功に転じ続けた人だけが、
リカバリーの方法を知っている。
それは、反省会を何度も何度も何度もした上での、
無意識化された行動になるだろう。
「反省して以後二度とないようにします」
なんて企業の心がこもっていない反省などどうでもよい。
あなたは本気で反省して、
次のトラブルを未然に防ぐのだ。
つまり、反省とは対策とセットである。
しゅんとした態度をとることや謹慎することは、
反省でもなんでもない。
冷静で確実な分析だけが、次に役に立つ反省だ。
これがチームで出来るようになれば、最強のチームになるだろう。
現代社会ではチームを作っては解散させるから、
なかなか反省会が有効に継承されていないが。
こういう時は昭和のやり方のはうが強いね、
反省前提だから失敗も怖くないし、坊主になれば許されるからおおらかでいられる。
2020年12月06日
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