2020年12月01日

三人称と一人称と、主観と客観

コメント欄に来た質問が面白かったので、
三人称の語り手について、
少し突っ込んでみようか。


「誰がそれを語るのか?」は、
「誰がそれを知っているのか?」と同じことだ。

世界を想像しよう。

人間がいる。
彼から見た世界は、彼だけが知っている。
彼の秘密や記憶や経験は彼だけのもので、
彼の心は覗き込むことができない。
彼が他の人に話す形式だけが、
彼の内面を外に出し、他の人に共有できる方法だ。

世界には人間が沢山いる。
つまり、これらの人の内面はそれぞれ別世界にいて、
それを共有することは不可能だ。
世界に70億いるならば、
70億の内面世界と、
ひとつの、地球という世界があるわけだ。

70億は、誰もが、
自分の内面世界と、69億99999999人の住む世界に、
世界が分けられている。

これを、主観と呼ぶことにしよう。
では客観はどこにあるか?

全員の内面世界を捨てて、
外から見えた、70億人の世界である。

客観は、人間の内面から見ることではなく、
人間の内面を捨てた、誰でもない、
自分を含めた世界全体を見る、抽象的な視点である。

そんな視点の実在性について語るのは得策ではない。
神が存在するかどうかはまだわかっていないので。

ただし我々は、
「客観的な視点」を想像することができる。
誰の内面や偏見にも陥っていない、
公平でフラットな視点のことだ。
大小や軽重の偏見はなく、
すべてが等価に、その価値の分だけ扱われる世界である。

これを「神の視点」と言ってもいいし、
「仮に我々が想像できる理想的な視点」と言ってもよい。

世界は、70億の主観的な視点と、
ひとつの理想的な客観視点の、70億1個の視点からできている。


「マクスウェルの悪魔」という物理学の仮説的な視点がある。
「マクスウェルの悪魔というのが仮にいるとする。
悪魔なので全知全能に近い。
彼の知ることのできるのは、
今この時点での、全宇宙の粒子の位置、速度、質量である。
もし物理学が正しければ、
マクスウェルの悪魔からこの全情報をもらうと、
すべて運動方程式にあてはめれば、
未来永劫のすべての粒子の運動が計算できるはずだ。
つまり、運命は決まっているし、
過去から現在未来の、時間軸全てを算出できる」
という仮説である。

運命は決まっているか?と、
すべての粒子の運動方程式は計算できるか?
は、物理学では同じ問いである。

(実際には、三つの粒子の運動方程式すら、
厳密解が導けないことが分かっている(三体問題)。
初期値敏感性の高いカオス運動になりやすい。
従って、多体問題を扱うときは、
群としての傾向しか議論できないことが、
古典物理学の限界だ。
つまり、マクスウェルの悪魔が実在していても、
我々人類の物理学では、まだ運命は計算できない。
一部の事象は、スパコンなどで計算しているが)

物理学の前提になっているのは、
我々人類の主観とは関係がない、
客観的な世界がひとつあるという仮定だ。
それはユークリッド座標系を持ち、時間軸を持つことが仮定である。

クオリアの話と同じで、
我々70億の主観が、同じ客観世界を共有している保証はない。
しかしそれ前提で議論は正しく機能し、
仮説が正しく結果をもたらすことにおいて、
「絶対的な客観世界がひとつある」
という仮定は、そう嘘ではない。
(科学とは、このように仮定するとこれが世界で成り立つ、
を検証していく過程のことであり、今のところ反証がないものは事実と呼ぶ)


さて、物語はどうだろう?

ある登場人物の主観に固定した、
「その人から見た世界」を描くのが、
一人称である。

これは、人間の記憶や体験や考えを表すのに、
もっとも原始的な方法だろう。
「俺はこう思う」「こないだこういうことがあって」
という「おはなし」の基本になるやり方だ。

ただ、容易にあり得るのは、「主観は歪む」である。
「偏見に満ちた世界の捉え方」なんてのは、
そこいらじゅうにある。
みんなが正しいと言ってることを、「俺は間違ってると思う」という人だっている。

みんなが正しいと言ってることが、ほんとうに正しいとは限らない。
天道説を覆し、地動説を証明したガリレオは、
主観世界より正しい客観世界があることを証明したわけだ。

つまり、主観が正しいか正しくないかは、
客観世界という一つの仮の視点から評価できる。

もちろん、おおむね正しい人もいる。
しかし「その人の中では合ってても、客観的には合ってない」は、
全然あるわけだ。

横に広がって歩く女たちは、
彼女たちの主観世界では「たのしいおしゃべりに夢中」だが、
客観世界では「後ろの人が追い越せなくて迷惑」なわけである。


一人称で語られる物語は、
その語り手が、ある程度正しく、客観的視点を持っていることが求められる。
そのほうが聞き手は安心できるからだ。

これを逆手にとって、
「実は主人公は狂っていた」
「実は主人公の見落としているところに真実があった」
「実はあえて語らないことによって、意図的に真実を隠していた(叙述トリック)」
などの変形をすることが可能だ。

あるいは、語り手を複数にして、
「彼らの言っていることは、
彼らの中ではすべて矛盾なく正しいが、真相はわからない(羅生門)」や、
「男は彼女のこういうところをいいと思っていた、
女は彼のこういうところをいいと思っていた、
それはずれていたのだが、それが最高だったのだ」
などのストーリーを作ることも可能だ。

「語り手を交互に変えて、
一見同時に起こったことを見ているようにして、
実は100年離れた時代の二つのストーリーだったとわかる」
なんて叙述トリックも可能だね。
有名どころでは「君の名は。」だろう。


一人称を逆手に取れるのは、
「絶対的な客観的視点」が存在して、
「ただしくすべてを知っている一人称」のふりをして、
「その人には知らないことがあった/誤解していた」
と、客観視点に戻すからできることだ。

一人称の限界は主観の範囲だからね。


さて、
ようやく三人称である。

三人称は、
この客観世界での、客観的な出来事を扱う。
つまり物理学の視点である。

誰かと誰かが何かをして、どうなったかを記述する。
それは言語によるものだが、
物理学的な運動方程式にも変換することが、
原理的に可能なことである。

もちろん、ミクロ範囲では主観的なことを言ったり思ったりする。
けれど全体のマクロで見れば、
「何が一体起こったのか?」
の顛末の、客観的な記録に過ぎないわけだ。

つまり、三人称物語は、
ジャーナリズムによる客観的記録にちかい。
その人の主観的な認識のことや、
その人しか分からないことを隠したままにしない。
もちろんその主観的何かを利用するが、
それは皆の前につまびらかになる。

秘密はバレるし、間違いは正され、
客観世界と主観世界は同じものへ収束するものだ。


三人称は原理的に叙述トリックが発生しないが、
巧妙にやる手がある。
主人公を三人称風に撮影しておいて、
「実はこれは主人公が見ていた嘘の世界で、
実は主人公は狂っていたのだ」というやつだ。

よくできた例は、数学者ジョンナッシュ(ナッシュ均衡で知られる)を描いた、
「ビューティフルマインド」だろうか。
「世界に数字の謎が隠されていることに気づいたジョンは、
それが繋がって暗号になっていることに気づく。
生涯をかけてその数字暗号を解いたと思った瞬間、
それは統合失調症の症状であったとわかる」
という衝撃的な展開なので、
叙述トリックを勉強するのにとてもよい。
(このネタバレは、そのあとの統合失調の治療がメインのドラマなので、
本編に失礼でないと判断した)

他にも、
「実は主人公はロボットで、人間ではなかった」
「実は主人公は死んでいた」
など、様々な叙述トリックが、
三人称形式に仕込まれた名作はたくさんある。


主観と客観のズレを使えば、
こうした芸当が可能になる。

逆にいうと、
基本、主観と客観はずれている。


コロナが中国起源とするアメリカと、
すでに他の国にあったとする中国は、
主観ごとずれている。(意図的にずらしているかも知れないが)

アメリカから見た話を書けば、アメリカの一人称ストーリー、
中国から見た話を書けば、中国の一人称ストーリーになる。
しかし主観とは、ある種の主張を通すことでもあり、
容易に嘘をつけ、陰謀をつくれるため、
「武漢ウイルスはどこから来たのか」を、
科学的に検証した、客観的ストーリーを皆は知りたがっているわけだ。

これは現実の話でもあるが、
物語でもそうである。

なぜなら、物語とは、複数の主観の対立だからである。


それを、
一方的な側から見て描くのを一人称、
双方の一人称を交互に繰り返すのが一人称双子型
(正式名称は不明。法廷ものやラブストーリーでよく使われる)、
客観的視点から全体を見るのが三人称、
と呼ぶわけだ。

三人称はどの人にも肩入れしない。
誰かが偉いとか、誰かを不当に大きく小さく描かない。
だが、
「その事件を解決する、最重要人物」に的を絞って重点的に描くことがあり、
それを主人公と呼ぶ。


三人称の主人公を、
一人称の主人公のように描くのはあやまりだ。

「俺の思うことを、俺の思うように書きたいし、
俺の思い通りに世界を動かしたい」は、
ものを書くときのひとつの欲望だが、
それは一人称であり、
三人称世界では、偏って狂った人の表現であるわけだ。
横に広がって歩く女たちなのだ。


三人称世界では、
世界を救う人がもっとも偉大だ。
だから主人公とは、皆を幸せにする人のことである。
だから映画では、ヒーローがよく描かれるわけだ。


逆に、一人称世界では、
主観の中で成功する人が主人公かも知れない。
だから、家父長制の重圧から逃れるための言い訳を延々とする、
近代に発達した私小説は、すべて一人称である。

犯罪者の告白なんかも、一人称が向いてるよね。



「歴史家のつもりで書く」ということは、
つまりは三人称を意識するための方法論だ。

あるいは、その事件の生き残りとして喋ることは、
主観的だった体験を、
なるべく客観的に語り、皆の役に立つような形に変形する、
三人称形式へと変換する方法論だといえる。



私と、世界と、主観的な人々と、客観と。

絶対的な客観視点は、実在しないが、
皆の中に理想的に存在する。
posted by おおおかとしひこ at 12:53| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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