鬼滅のヒットの違和感がなんなのか、まだ言葉に出来ない。
アニメの力が大きいということはわかる。
だが、ヒットを支えている層、主にF1〜F2だと思うけど、
彼女たちの発想が僕にはなかったので、
あまりにもびっくりして、腑に落ちた。
まめきちまめこの日記は面白いのでたまに見るのだが、
http://mamekichimameko.blog.jp/archives/83377166.html
で言及されている感覚は、
僕が少年漫画を見る感覚とはずいぶん異次元だなと感じた。
彼女たちは、推しを見つけに行くのか。
推しは、贔屓レベルから恋する相手、妄想の恋人まで、
広い意味があるけれど、
少年漫画で推しを探すのか。
これは、彼ら登場人物は「他人」だという見方である。
僕ら男子は、
彼ら登場人物は、「自分」だと思って見る。
つまり、
もし自分が鬼と戦うならば、
もし自分が○柱ならば、
と自分をあの中に没入させる。
彼らは自分である。
これが感情移入だ。
他人がまるで自分だと感じる作用である。
ところが彼女たちは、他人を愛でるために見ている。
自分が炭治郎だったら、
自分が善逸だったら、
自分が煉獄だったら、
と考えないようだ。
これは、物語の感情移入とは異なる見方だ。
以前、鬼滅には身体性が希薄であると評論した。
「もし自分が水の呼吸を使うならば」
「もし自分が雷の呼吸を使うならば」
という感覚や設定が希薄であるという指摘だ。
せっかくのチャンバラものなのに、
牙突やアバンストラッシュのような、
真似できる太刀筋がないのだ。
たとえば、
「水の呼吸は基本の袈裟斬りから、返す刀の切り上げである」
「雷の呼吸は突き技である」
「炎の呼吸は左足前の特殊刀法である」
などがありさえすれば、我々男子は真似できる。
僕が中学生で剣道部ならば、ひそかにそれを試合に使おうとするだろう。
ところがそうした身体性が希薄で、
叫び声とエフェクトしか存在しないことが、
とても気になったのだ。
全集中しかなくて、半集中や裏集中、極限集中がないことなども、
とても気になる。
「全集中」って言うしか真似できないもの。
これは、
「自分がその人になることを求めているのではなく、
推しを探すために登場人物たちがいる」
と見方を変えると理解できることに気づく。
彼女たちは、
最初から物語の中に参加することができない、
取り巻きとしてしか存在できないのである。
ジャニーズになるのではなく、
客席でキャーキャー言う人たちになりたいのである。
なるほど、
そう考えると、
映画刀剣乱舞の見方も変わってくる。
僕はあの刀たちにはなんの感情移入も出来なかった。
自分が彼らの中に入るとは思えなかった。
ところが、観客の大半は、
彼らは自分ではなく、眺めて応援するための他人だったのだ。
僕は、それは物語の見方として間違っていると考える。
女たちが間違っているわけではない。
男だって、
AKBやその出演ドラマを見るときはそのようなものだ。
何秒映った、頑張ってる、やっぱ笑顔が素敵、と、
自分が彼女になるのではなく、
他人としての推しを楽しむわけである。
だが、
「他者として物語を見る」見方は、
フェミニストが批判するべきところだと思う。
つまりは、
「女はこれまで戦闘に参加する機会から疎外されていたため、
戦闘する物語を自分ごととして認識できず、
応援する他者としてしか参加できない」だと。
「女だとしても、
まるで自分が戦い、傷つき、命を賭けるような、
迫真の物語が求められるべきであり、
LGBTに配慮したりポリコレをやろうとする意味はない」
が、本当のフェミニズムによる批判だろう。
恋柱がぶりんぶりんしていることなどどうでも良い。
観客が、他者として、
蚊帳の外に置かれていることを批判するべきだろう。
それは、戦うことから疎外された差別だぞ。
戦うから身体性が必要だ。
それがないということは、
自分が戦うのではなく、
「他人に戦ってもらうのを見る」ということだ。
それはフェミニズム的に言えば、
「男の戦い」という性の商品化だと僕は思う。
戦うメンバーに女がいればセーフとか、
ぶりんぶりんがいなければセーフとか、
ぶりんぶりんを攻撃することは彼女の個性を差別することだとか、
どうでもいい議論は瑣末だ。
「推しを探す」というものが、
物語の根本であるところの、
感情移入と乖離しているところに、
僕は一番違和感を感じている。
少年漫画は少年のものだ。
登場人物に「なる」ことで楽しむ。
鬼滅の刃にはその要素が足りなくて、
他者として応援して眺めるものとして存在する点で、
僕には異様なものに見える。
思えば、テニプリあたりから感じていた違和感だ。
ジャニーズたちの毒抜きされた、
作られた王子様たちの娯楽もうんざりだった。
あの男たちは、女に受けるように作られた男たちだ。
男に受けるように作られた女たちに、
女たちが生理的嫌悪感を覚えるのと同じくらい、
僕はあの男たちが嫌いである。
少女漫画の王子様は現実にいないし、
少年漫画のヒロインも現実にはいない。
そこスタートからはじめないと、
男と女は理解し合えないと思うんだよな。
男も女も、戦う男と戦う女に感情移入して、
男も女も、恋する女と恋する男に感情移入する。
それがよくできた物語だと、
僕は思う。
鬼滅は、違和感がとてもある。
身体性を与えたアニメから火がついたのは、わかる。
雷とか水のエフェクトとかミュージカル的な戦闘描写だなと思います。あと戦闘中、やたら喋るところも。キャラのセリフが「俺は〜負けない〜〜♪勝利を掴むんだ〜〜〜〜♪」みたいなノリで、こういう宝塚みたいな感じで美化したほうが、鼻血出して殴り合う喧嘩描写より女性に受け入れられやすいのでしょうか。推しを作る読み方は慣れれば結構楽しいですが、本人にとってのデメリットも確実にあるような気がしています。
宝塚-2.5次元と、繋がってる可能性はありますね。
逆にいうとエフェクトさえ入ってれば次に行くのを許す、
という文化はちょっと受け入れ難いですね。
舞台ならしょうがないと割り切るだろうけど、
そこで起こってることは物理現象のはずなので。
物理と魔法の区別がつかない程度の教養なら、
それを喜ぶのかも知れませんが。
もちろん、物語がすべてリアルである必要はありませんが、
物理ファンタジーには根拠が必要だと思います。
(例: レーダーを無効にするミノフスキー粒子の存在で、
有視界戦闘するしかない)
その境界線が、男女で明らかに違うのが気味が悪い。