鬼滅の刃に対する違和感をこれまでつらつらと書いてきたが、
従来の(男による)ストーリー理論的なものとは、
ずいぶん異なる(女性作家的な)作風であることは確かだ。
ネタバレなしで俯瞰してみたい。
・何をしたかよりも、どうであったかでキャラが描かれていること
・現在の行動よりも、過去の方が力強く感情移入できること
・主体ではなく、客体として戦う男たちを描いていること
・いろんな立場から見た多視点ではなく、多視点は味方に限定され、敵は憎むべき敵のままなこと
(また、敵に知性や計画性がないこと)
これらは全て従来の、
(男による)ストーリー理論で否定されてきたものたちばかりだ。
こういうタイプの物語は、
(少なくとも従来の)男が面白いと思わなかったわけだ。
つまり、
これまでのストーリー理論では、
・何を行動したか、何故か、結果は
・過去ではなく、現在でどう行動するかに物語性がある
・他人事であったのが、いつのまにか我が事のようになっている
・敵や味方は標準的な知性があり、知力の戦いでもある。
基本的に最善手を尽くし合う。
敵と味方の差は、立場や思想の差にすぎず、相対的である。
のようなものが良いとされたし、
それ以外のものは僕は面白いと思ってこなかった。
男は行動で示すべきだし、結果良ければ全てよしだし、
過去を引きずらずに未来を変えるべきだし、
どうしたらこの問題を解決できるか?と、
自分だったらどうするかをこの世界のルール内で考えるし、
敵を尊敬して、間違っていたら向こう側だったかも知れないとすら思う。
こうしたものが、
従来のストーリー理論で理想とされた、
(男の)物語である。
これとは明らかに異質で、
真逆な価値観によるものが鬼滅の刃だ。
あるいは、少女漫画(僕は詳しくないのでなんともだが)を
はじめとする、女性に向けた物語は、
ずっとこうだったのかも知れない。
かつてならば、「巣から出てくるな」と封印されたものが、
女性たちの地位向上によって、
無視できない市場規模になってきたというわけだ。
いや、むしろ、女の客の方が、
江戸時代の歌舞伎の時代から、太客になることは経験済みである。
ジャニコンではチケット代よりもグッズ代、お布施代のほうが出るわけで。
男の客は移り気だが、
女の太客は一生尽くすそうだ。
ということで、太客を狙った、
意図的なビジネス戦略だとも言えるだろう。
(宝塚から、テニプリ、2.5次元あたりの流れと、
軌を一にしている)
これは漫画だから許されるのだろうか?
実写なら流石にリアリティ(身体性など)がないからバレるのか?
いや、少女漫画原作の実写化は、
まさしくこうした、
女の太客狙いのビジネスであったはずだ。
男の客は、どこへ行ってしまったのだろう?
邦画やテレビは、いつからか女向けにビジネスをシフトした。
おれたちは、そこからどんどん離れていった。
映画刀剣乱舞が、おれたち向けでないのは明らかだったが、
もはや邦画もテレビも、俺たち向けでないのかもしれない。
俺たちは何を見ればいいんだろう。
従来のストーリー理論と、
女性向けのストーリー理論は、
相入れないものだろうか?
それとも統合するものだろうか?
対立するものはアウフヘーベンして良きものになるか、
一方が他方を滅ぼすかだ。
今はまだ対立の時代だろう。
「女は」「男は」といった呪詛はネットに散見される。
それはそのままずっとなのか、
相互理解が訪れるかは、
これから日本がどうなるのかと関係していると思う。
鬼滅の刃の作品性には、
キャラクターへの思い入れの強さという、
いい部分はある。
しかしそれは、男の僕から見れば出落ちにしか見えない。
この構造は、
黄金聖闘士が揃った後の聖闘士星矢がつまらなくなったことと、
相似をなしていると思う。
聖闘士星矢のピークは十二宮編までで、
ポセイドン編、ハーデス編と回を追うごとに詰まらなくなった。
それはキャラの出落ちが十二宮編で終わってしまい、
あとは似たような出落ちのループになってしまったからだ。
鬼滅の刃は、柱が出てから面白くなったが、
そのことによって炭治郎たち子供が立たなくなってしまった。
黄金聖闘士と柱がほぼ対応している。
炭治郎が水の呼吸から義勇の弟子になったり、
善逸が雷柱として独り立ちしたり、
(眠らなくても強くなれたり)
猪之助が何かの柱になったりして、
柱の世代交代ができる要素が用意されていたにも関わらず、
そこに至る前に柱を消費して終わってしまった。
そこに「成長」というモチーフがあったのに、
あまりにもったいない消費だと僕は思った。
軸が炭治郎になく、柱に分散してしまってから、
皮肉にも鬼滅は面白くなった。
黄金聖闘士の世代交代に失敗した聖闘士星矢と、
似ていると思う。
鬼滅が聖闘士星矢よりも作品的に救われているのは、
ポセイドン編ハーデス編に当たる、
晩節を汚すようなことをしなかった、
潔さにあると思う。
(北斗の拳やキン肉マンの晩年はひどいよね)
昔のジャンプ引き伸ばし方式ならば、
無惨のさらに前の代の鬼が復活してとか、
ヒノカミ神楽のさらに前の呼吸とか、
呼吸の通用しない鬼が出てくるとか、
無惨編の次のなんとか編に突入していたと思う。
それがなかった分、損切りに成功したところが現代的だ。
ただ一つだけ、鬼滅は少女漫画としての要素を備えてるかというと、そうでもないと思います。
私自身少女漫画は読んできたのですが、少女漫画でポイントとされるところは「髪」と「人間関係」です。髪はツヤベタや細い線で一本一本表現したり、いわばその部分で作家の繊細さを見ています。(漫勉で惣領さんが言っていたと思います)女性が特に注目するパーツの一つです。
鬼滅の作画は髪の書き込みがあまりうまくない。
(ホワイトで髪の線を縁取ったり、ザンバラな髪型、サラサラ感が感じられない。)
そして人間関係の描写。ここは個人的な意見なのではっきりとは言えませんが、少女漫画ならもう少し人間関係の過程を書きます。特に恋愛をメインに据えているので恋愛関連は読者に納得させるまでしっかりやる所が多いです。鬼滅はそれにしては飛ばしすぎたような。
女性読者としても、もう少し丁寧にやって欲しかったなと感じました。少年漫画としても少女漫画としてもイマイチな作品という印象です。
最終回は本誌連載時になかった加筆だらけで、本誌派と単行本派で印象がまったく違います。終わらせたのが偉いと世間は言うけれど、逆に言えばこんなやり方をしなかったから歴代の漫画家はすごいんだろうなと思うようになりました。
長文失礼いたしました。
あ、単行本って大幅加筆だったのか。
知らずにすいません。どうもページ数が多いと思ったんだよな。
あの舞台はまんまで、いろんな人たちを追加したのかしら。
少女漫画は髪や瞳が印象的ですが、
僕は「自分がブスだと分かってる(思い込んでいる)人は、
髪も瞳も書き込まないのではないか」と考えます。
みんな魚の死んだような目が印象的だったので。
そのかわりとしての、衣装、小道具、アクセサリへの執着は凄かったと思います。
そのへんに僕は少女漫画味を強烈に感じましたね。
男が実戦であんな髪飾りするわけないやん。引っ張ったら耳ちぎれるわ。
(男は常に耳が引っ張られる前提で生きている。できれば餃子にしたい。
耳飾りひとつでフェミニズムと二時間議論できそう)
人間関係に関しては、少年漫画よりも濃厚だと思いますよ。
単行本の「捨てた設定」みたいなのを読むと、
「少年漫画にしては濃厚すぎる、少女漫画じゃないんだから捨てなさい」
と編集者が指示していた様子がありありと見えます。
とくに無限城あたりからばりばりと増えたような。
おそらく柱以前までは、編集者と漫画家で作っていて、
柱以後は漫画家の考えたことを編集者が捌いていたのでは、
と想像。
柱以後が面白くなり、それ以前は平凡な漫画だったので。
少年漫画なら、鍛冶屋も蝶の館もスルーするパートなので、
人間(身内)を拾う愛情の深さにちょっと辟易するくらいでしたね。
全体的に、
少年漫画には必要なものが決定的に欠けていて、
少女漫画的なものをそこにぶちこみ、
しかし少女漫画としては欠けている感じですかね。
どちらも欠けていると見るか、
ないものがそこにあったと見るかですかね。
僕は最小公倍数のような掛け算になるべきで、
最大公約数の割り算で目減りしているのは、
惜しいなと思います。