ストーリーとは問題の解決である。
そして、困らないとストーリーにならない。
何も問題が起こらないのはストーリーではない。
「今日は何も起こらなかった」はストーリーではない。
日常系ですら、舞台が日常系なだけで問題は起こる。
解決のないものもストーリーとは言えない。
犯人が捕まらないバッドエンド、「ゾディアック」は最低だ。
バッドエンドは、じゃあどうすれば解決できるのか、
を提示できていない意味で、閉じていない。
開いたものは閉じるべきである。
微妙な解決よりも、鮮やかで見事で爽快な解決を、
人は求めている。
問題が起こったとき、
主人公は困らなくてはならない。
逆に、問題とは困ることである。
スーパーヒーローにとっては、
泥棒一人捕まえることは困りもしないだろう。
しかし我々一般人が泥棒にやられたら大変困る。
我々にとっては簡単な買い物も、
子供のはじめてのおつかいは大冒険だろう。
女を食っては捨ててきたやりちんですら、
ほんとうの恋を初めてしたら、とても困るだろう。
どういう困り方でもいい。
簡単に解決するものは問題ではない。
ググったら解決したり、
誰かに解決してもらったり、
新発売の商品を買えば解決することは問題ではない。
主人公がすぐには解決できず、
困って、初めてストーリーが始まるのだ。
困ったらどうするだろう。
誰かに助けを求めるだろうか。
誰かに聞きに行くだろうか。
調べるだろうか。
やりかたが分かっても非常に困難なものだったら、
それでもやるだろうか。
予想される困難さ(冒険)と、
今困っているのを天秤にかけて、
冒険に出かけることになるだろう。
人は困らなければストーリーを始めない。
つまり動機の最初は、「困った」である。
たいていは逃げる。
なかったことにする。隠蔽する。
なくても困らないやと強がる。
無視して生きていく。
それでも締め切りが近づいたり、
強制的にそうさせられたりして、
逃げ場がなくなったとき、
人は困ったことを、解決する必要に迫られる。
困らないことなら解決できても、
困ったことは解決できない。
だから、ストーリーになるのだ。
困らない問題を与えてもストーリーにはならない。
解決できない問題はストーリーにはならない。
ストーリーとは、
困った問題を、自力で解決するまでの顛末のことをいう。
なぜ困ったことなのか?
なぜそれを解決しようと思うのか?
あるいは、解決せざるを得ないのか?
それはなぜどうやって解決されるのか?
そこまではどういう経緯があるのか?
どういうことをクリアしないとたどり着けないのだろうか?
一筋縄ではいかない、曲がりくねった道を、
主人公は進まなくてはならない。
困っているからである。
主人公以外はどうだろう?
他に困っている人もいるだろうか?
困った人同士、協力できないか?
困り方が正反対ならば、相手をやっつければこっちは解決するだろうか?
呉越同舟でも、大きな困ったことを解決できるならばそれも良しか?
全員が困っていて、
全員がそれぞれを解決しようと進んでいる。
それらはぶつかり合い、交わりあい、利用しあい、
競合しあい、妨害しあい、展開して、
最終的な大解決へと至る。
それがストーリーである。
そして、その中で一番困っていて、
それらを大解決させた人のことを、
俯瞰して主人公と呼ぶ。
たとえば、
パソコンが壊れて困っているAが、
Bに相談して、Bが苦労の末に修理して、直ったとしよう。
これはストーリーではない。
一番困っているAは何もしていない。問題の解決の主役ではない。
修理したBは、困った末に解決したわけではなく、
自分のスキルを使っただけで、困ったわけではない。
ちょっと苦労しただけのことである。
よくあるこのようなことは、
よかったよかったというハッピーエンドであるが、
ストーリーではない。
困っているのは主観である。
一番の立役者は、客観である。
主人公は、両方で深く、影響力がなくてはならない。
「あいつが、一番解決するのにふさわしかった。
だってあいつが一番困っていたんだもの」
となるべきだ。
つまり、壊れたパソコンで一番困ったAが、
第三のOSを発明しなければ、上のものはストーリーにはならない。
パソコンが壊れて困ることが冒頭に来ない理由はこれだ。
お話とは、困ったことからはじまる。
そして最終的には、
困る前より幸せになることを言う。
2020年12月13日
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