主人公を自分にしてはいけない。
これは一種の戒めだと思っていてよい。
ということは、
所詮、他人事なのだよ。自分の書く話は。
他人事だから、
無茶ぶりができる。
自分では解決できないことでも、
その人には(ぎりぎり)解決できる力を設定してしまえばいいからだ。
他人事だから、
不幸のどん底やひどい目に合わせることができる。
自分だったら避けてしまうところへ突っ込んでいける。
それは、感情のふり幅を豊かにするだろう。
他人事だから、
自分が得る以上のしあわせを描くこともできる。
自分だったらとても無理なことも書ける。
他人事だから、
自分にはない長所をつくることができる。
全然違う人を描くことで、
その特質をうらやむこともできるだろう。
それがあれば、とその要素をねたみ、
いや、だれでも得られる能力なのだ、
とやると希望が持てる。
自分にない長所だからこそ、
そうした希望をつくることができる。
自分のそれだったら、そこまで客観的にとらえられない。
他人の痛みなんて百万年でも耐えられる。
自分の痛みは二秒くらいまでだろう。
そこをうまく使うことだ。
他人事だと思って、
プロットは組もう。
執筆のときは、
最初は他人だけど、
書いているうちに、旧友であるような気がしてくるものだ。
色んな体験をすると、人と人はそのような感情を抱くことができる。
観客とその人物のそれも利用する。
愛着という感情だ。
愛着のある人物に不幸を負わせると、
それはそれはこの先が見たくなる。
どうやって脱出する?という期待でだ。
自分には無理な、他人だからこそのその能力で、
それが達成されれば、
皆拍手喝采だ。
物語は、
所詮他人の活躍を見守るものだ。
自分で解決するのではない。
主人公という他人がどう解決するかを見守る娯楽である。
他人事を書いているのだ、
という自覚をたまにしよう。
それは俺のキャラだ、と思ってしまうのは、
まだ他人事ではないのかもしれないよ。
かわいくなってしまった子には、冒険はさせづらいものだ。
それは温室になってしまう。
俺のキャラじゃなくて、
パブリックドメインのキャラ、
くらいに考えておかないと、
不幸も幸福もふり幅を作れないかもね。
2020年12月16日
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