なぜ映画は殴り合ったりチェイスしたり、
爆発したりするのだろう。
それが派手で面白いという理由がひとつ。
そしてもうひとつは、
戦いを視覚化する方法がそれだからだ。
ストーリーとはコンフリクトである。
目的の異なる二者以上が争うことで成立する。
必然、直接対決があり得る。
(間接対決だと微妙に面白くないね。
「デスノート」は、それをエンターテイメントまで高めた、
稀有な作品だが)
その直接対決は、
何と何の争いだろう。
主義と主義、考え方と考え方の争いだろう。
それは、演説バトルをすれば済むことだろうか?
それは視覚的につまらないよね。
だから、視覚的に面白い「戦い」に変換するのだ。
その視覚的なバトルに勝ったほうが、
思想的にも勝ちだというのが、
映画的な決着の付け方である。
極端に、
資本主義と共産主義が戦うとしよう。
イデオロギー同士が演説して、勝敗を決めるのだろうか?
生産力が高いほうが勝ちだろうか?
幸福度調査をして、高いほうが勝ちだろうか?
それじゃ映画にならない。
だから、どうにかして視覚的なものに変換する。
生産力勝負ならば、
たとえばより多く米をつくったほうが勝ちと決めて、
米俵を多く積んだほうが勝ちにするわけだ。
軍隊の勝負ならば、
戦争するか、アームレスリング勝負にするかして、
直接目に見える勝負にするのだ。
幸福度の勝負ならば、
快いと思っている人の街同士が、
殴り合ったり戦争するのだ。
とにかく、争うならば、
視覚的に争い、決着がつくような、
何かしらに変換しなければならない。
そしてそれを決めるのは、脚本家の腕なのだ。
何と何が争うのか、
そしてそれは物理的にどういう戦いにすると、
それを表せるのか、
そして面白くなるのか。
それを考えつかない限り、
それは抽象的な争いになり、
映画にはならないと思う。
物理的な戦いにするのが難しいから、
資本主義対共産主義の映画はつくられない。
部分的に、ロシアに潜入するとか、
そこの敵を倒すとかで、
象徴的に暗示されることはあるが。
いずれにせよ、
古典的な物理勝負で、映画というのは争われる。
新しいビジュアル勝負の仕方を思いつけば、
それも新しく提示できるが、
多くの映画のクライマックスは、
これまで見てきたものの組み合わせでほぼつくれるよ。
歴史的快作、アベンジャーズエンドゲームは、
それを指パッチンまで練り倒した作品だ。
どういう戦い方で、どういうバトルで、
何と何が勝負をつけるのか。
それが映画の一番中心となる軸だ。
それができていないのは、脚本ではない。
どういう抽象的な考え方が、
その具体的な物理バトルで闘うのか?
それを決めない限り、
それは脚本とは言えないだろう。
2020年12月18日
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