2020年12月18日

ストーリーとは、物理的な戦いや冒険に変換する

なぜ映画は殴り合ったりチェイスしたり、
爆発したりするのだろう。
それが派手で面白いという理由がひとつ。

そしてもうひとつは、
戦いを視覚化する方法がそれだからだ。


ストーリーとはコンフリクトである。
目的の異なる二者以上が争うことで成立する。

必然、直接対決があり得る。
(間接対決だと微妙に面白くないね。
「デスノート」は、それをエンターテイメントまで高めた、
稀有な作品だが)

その直接対決は、
何と何の争いだろう。
主義と主義、考え方と考え方の争いだろう。

それは、演説バトルをすれば済むことだろうか?
それは視覚的につまらないよね。
だから、視覚的に面白い「戦い」に変換するのだ。

その視覚的なバトルに勝ったほうが、
思想的にも勝ちだというのが、
映画的な決着の付け方である。


極端に、
資本主義と共産主義が戦うとしよう。
イデオロギー同士が演説して、勝敗を決めるのだろうか?
生産力が高いほうが勝ちだろうか?
幸福度調査をして、高いほうが勝ちだろうか?

それじゃ映画にならない。
だから、どうにかして視覚的なものに変換する。

生産力勝負ならば、
たとえばより多く米をつくったほうが勝ちと決めて、
米俵を多く積んだほうが勝ちにするわけだ。

軍隊の勝負ならば、
戦争するか、アームレスリング勝負にするかして、
直接目に見える勝負にするのだ。

幸福度の勝負ならば、
快いと思っている人の街同士が、
殴り合ったり戦争するのだ。

とにかく、争うならば、
視覚的に争い、決着がつくような、
何かしらに変換しなければならない。
そしてそれを決めるのは、脚本家の腕なのだ。


何と何が争うのか、
そしてそれは物理的にどういう戦いにすると、
それを表せるのか、
そして面白くなるのか。

それを考えつかない限り、
それは抽象的な争いになり、
映画にはならないと思う。

物理的な戦いにするのが難しいから、
資本主義対共産主義の映画はつくられない。
部分的に、ロシアに潜入するとか、
そこの敵を倒すとかで、
象徴的に暗示されることはあるが。


いずれにせよ、
古典的な物理勝負で、映画というのは争われる。

新しいビジュアル勝負の仕方を思いつけば、
それも新しく提示できるが、
多くの映画のクライマックスは、
これまで見てきたものの組み合わせでほぼつくれるよ。

歴史的快作、アベンジャーズエンドゲームは、
それを指パッチンまで練り倒した作品だ。


どういう戦い方で、どういうバトルで、
何と何が勝負をつけるのか。
それが映画の一番中心となる軸だ。
それができていないのは、脚本ではない。

どういう抽象的な考え方が、
その具体的な物理バトルで闘うのか?
それを決めない限り、
それは脚本とは言えないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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