2020年12月23日

世界の精度が上がることは、近くしか見れないこと

かも知れないなあ、と、
昼間に登った月を見ていた。

漫画版の「幻魔大戦」では月を壊したというのに、
それを考えるには精度を下げなくてはならない。
近くの精度を下げることで、遠くに目が届くようになる。


スケールの大きいことを考えるには、
スケールの小さいことを無視することだ。

家のゴミ出しを考えているときに、
太陽系の引力圏から出るボイジャーのことは考えられない。

「宇宙のスケールで考えれば、
ちっぽけな事で悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しくなった」
ということは良くあることだが、
物語にもそのような効果があるべきではないかと思う。

つまり、だから、その為には精度は下げる事だ。

近くの精度を下げることで、
遠くに届くスケールを手に入れるのだ。

なぜなら、おそらく人間の脳のキャパは一定だからだ。


近くの精度を上げて、
リアリティのある、
近くの話を書くことはやぶさかではない。
しかし精度が上がったことで、
現実とは遠い話を書きにくくなっているのはたしかだ。

撮影可能な世界ばかり追い求めている(おもに予算のせい)と、
精度を上げることしか思いつかなくなってしまう。
結果、リアリティはあるがちっぽけな話になりがち。

小さい世界をやるなら深くなければならない。
大きい世界をやるなら遠くなければならない。



「Netflixを見ると疲れる」のは、
近くの精度も高くて、
遠くに行こうとしているからかも知れない。

たぶんデジタル撮影と綿密なカラコレのせいだ。
こんなに根を詰めたものを、
人は一瞬では処理しきれない。
フィルムで撮ってるくらいの、
SDテレビ撮影程度の、
鉛筆で描ける程度の、
世界の方が、
遠くに行ける精度だったのではないか。

リアリティがあるから何だというのだ。
それをぶっ飛ばすほど、遠いところへ連れて行ってくれる、
空のような作品を書くべきだと僕は考えている。

もちろん、あまりにもリアリティがないのは、
いかがなものかとは思うけど、
ドラマ風魔ぐらいの精度でいいんじゃないかなあ。
その分遠くへ連れてってくれたと思うんだよね。


近くの精度×遠くが、

両方とも大きいのがNetflix、
前者だけ大きいのが最近の邦画、
後者だけ大きいのがガバガバ、
両方とも小さいのが凡作ということだね。


ネットの発達で世界が狭くなって、
遠くがなくなりつつあるから、
近くの精度ばかり上げているのかも知れない。
それは、歩みを止めることになると思う。
posted by おおおかとしひこ at 14:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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