2021年01月02日

私たちは、高揚したり冷静になったりする

映画は高揚する部分ばかりが取り沙汰されがちだけど、
それだけ取り出したって映画にはならない。
セックスシーンだけのAVが詰まらないのと同じだ。

高揚と冷静の部分、
両方の感情をコントロールするのだ。


高揚は比較的簡単だ。
全能感を満たす場面を作ればいい。

音楽をかけ、好みのシチュエーションと好みの言葉があれば、
大体は高揚感が訪れる。

CMは、作られたそのような高揚感の見本市である。

高揚感は条件反射でもある。
スピードの速い車、
うまそうに飯を食うところ、
スローモーションで振り返る美女を見れば、
それだけで我々は高揚する。
まるでパブロフの犬だ。

だからこれを作り出すこと自体は、
比較的簡単だ。


問題はその影の部分であるところの、
冷静な部分である。

冷静は、反省を促す。

なんであの時あんなに高揚感に酔っていたんだろう、
ばっかじゃないの?
もっと冷静に周りを見ろよ、
のようにだ。

高揚から始めると、冷静になって冷めてしまう。
CMが短いのは、冷める前に終わらせるためである。
冷静になる前に高揚感で終わるためだ。
だからCMは踊らせるためにあるのである。
CMとは、「この高揚なら乗りたいね」を編み出すシステムだとも言える。

15秒や30秒なら冷静になる前に終わるけれど、
シナリオはそうではない。

高揚から始めると、冷静の谷間がやってくるのだ。
あの阿呆みたいな狂騒はなんだったのだ、
と冷静になり、
作品の速度が落ちるどころか、
作者のテンションまで下がって、
「こんな作品は書くべきでなかった」
まで冷静になってしまうことは、
稀に良くあることだ。

つまりは、だから、
冷静から始めればいいんだよね。


冷静に、起こった問題を分析する。
冷静に、問題の対処法を検討する。
冷静に、撤退するか挑戦するかを問う。
冷静に、解決のメリットと、撤退のデメリットを考える。

それが、挑戦に天秤が傾くときが、
冷静に火が付き、高揚感がはじまるときだと思う。

冷静から高揚に転じることが書けるようになったら、
高揚が終わり再び賢者モードになったときも、
次の高揚へ仕込めるようになる。
次に問題があり、
同じことをすればいいからだ。

そして前の高揚が残っていて、
成功体験ゆえに判断を誤ったり、
慎重になりすぎて前の高揚を活かせなかったりして、
失敗するとさらに冷静になるだろう。

もっとも冷静なポイントは、
第二ターニングポイントより前、
ボトムポイントと呼ばれるところだ。

最も冷静なところに、
最後の突破口を発見するからこそ、
クライマックスへの入り口になるわけである。


二時間高揚してるバカはいない。
クスリでもやらないとそうならない。
人は殆どの時間は冷静であり、
なかなか火は付かない。


どんな冷静な人の心にも火をつけるように。

高揚から始めるからそれができない。
冷静から始め、高揚にもっていくようにしよう。

状況を把握する。
メンバーを確認する。
目的を把握する。
なぜそうしたいか問う。
それでも、ギャンブルするべきだ、
と、理性で高揚への判断ができると、
あとはうわーって上がっていく。

その、客観的状況を作り出せれば、
物語は半分できたようなものだ。

今どういう問題が、どういう状態で起こっていて、
どう言う解決法があり得て、
主人公はそのうち、最も成功しそうな○○を選択する。
しかし失敗し、
成功する見込みは薄いが最もシンプルに解決する××があり、
それを取るしかない。
そういう風にひとつずつ詰将棋のように詰めていけば、
あとは高揚するしかなくなっていくぞ。


USA!とか、正義のために、は簡単な高揚剤である。
えっちな刺激やスリルや危険も、高揚剤である。
音楽やダンスも、高揚剤である。
世の中にはどのような高揚があるか、
冷静に分析したまえ。
そして、どういう冷静からその高揚になったのかの、
シミュレーションも勉強になる。
posted by おおおかとしひこ at 01:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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