映画は高揚する部分ばかりが取り沙汰されがちだけど、
それだけ取り出したって映画にはならない。
セックスシーンだけのAVが詰まらないのと同じだ。
高揚と冷静の部分、
両方の感情をコントロールするのだ。
高揚は比較的簡単だ。
全能感を満たす場面を作ればいい。
音楽をかけ、好みのシチュエーションと好みの言葉があれば、
大体は高揚感が訪れる。
CMは、作られたそのような高揚感の見本市である。
高揚感は条件反射でもある。
スピードの速い車、
うまそうに飯を食うところ、
スローモーションで振り返る美女を見れば、
それだけで我々は高揚する。
まるでパブロフの犬だ。
だからこれを作り出すこと自体は、
比較的簡単だ。
問題はその影の部分であるところの、
冷静な部分である。
冷静は、反省を促す。
なんであの時あんなに高揚感に酔っていたんだろう、
ばっかじゃないの?
もっと冷静に周りを見ろよ、
のようにだ。
高揚から始めると、冷静になって冷めてしまう。
CMが短いのは、冷める前に終わらせるためである。
冷静になる前に高揚感で終わるためだ。
だからCMは踊らせるためにあるのである。
CMとは、「この高揚なら乗りたいね」を編み出すシステムだとも言える。
15秒や30秒なら冷静になる前に終わるけれど、
シナリオはそうではない。
高揚から始めると、冷静の谷間がやってくるのだ。
あの阿呆みたいな狂騒はなんだったのだ、
と冷静になり、
作品の速度が落ちるどころか、
作者のテンションまで下がって、
「こんな作品は書くべきでなかった」
まで冷静になってしまうことは、
稀に良くあることだ。
つまりは、だから、
冷静から始めればいいんだよね。
冷静に、起こった問題を分析する。
冷静に、問題の対処法を検討する。
冷静に、撤退するか挑戦するかを問う。
冷静に、解決のメリットと、撤退のデメリットを考える。
それが、挑戦に天秤が傾くときが、
冷静に火が付き、高揚感がはじまるときだと思う。
冷静から高揚に転じることが書けるようになったら、
高揚が終わり再び賢者モードになったときも、
次の高揚へ仕込めるようになる。
次に問題があり、
同じことをすればいいからだ。
そして前の高揚が残っていて、
成功体験ゆえに判断を誤ったり、
慎重になりすぎて前の高揚を活かせなかったりして、
失敗するとさらに冷静になるだろう。
もっとも冷静なポイントは、
第二ターニングポイントより前、
ボトムポイントと呼ばれるところだ。
最も冷静なところに、
最後の突破口を発見するからこそ、
クライマックスへの入り口になるわけである。
二時間高揚してるバカはいない。
クスリでもやらないとそうならない。
人は殆どの時間は冷静であり、
なかなか火は付かない。
どんな冷静な人の心にも火をつけるように。
高揚から始めるからそれができない。
冷静から始め、高揚にもっていくようにしよう。
状況を把握する。
メンバーを確認する。
目的を把握する。
なぜそうしたいか問う。
それでも、ギャンブルするべきだ、
と、理性で高揚への判断ができると、
あとはうわーって上がっていく。
その、客観的状況を作り出せれば、
物語は半分できたようなものだ。
今どういう問題が、どういう状態で起こっていて、
どう言う解決法があり得て、
主人公はそのうち、最も成功しそうな○○を選択する。
しかし失敗し、
成功する見込みは薄いが最もシンプルに解決する××があり、
それを取るしかない。
そういう風にひとつずつ詰将棋のように詰めていけば、
あとは高揚するしかなくなっていくぞ。
USA!とか、正義のために、は簡単な高揚剤である。
えっちな刺激やスリルや危険も、高揚剤である。
音楽やダンスも、高揚剤である。
世の中にはどのような高揚があるか、
冷静に分析したまえ。
そして、どういう冷静からその高揚になったのかの、
シミュレーションも勉強になる。
2021年01月02日
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