自分の欲望を満たせ、幸せになったからか、
「他人の幸せ」を考えられるようになる。
腹が減っている時は、
他人の空腹や満腹に興味がない。
興味がないというよりは、
自分のことで精一杯になり、
そんな余裕がない、というのが本当のところだろう。
腹が減っている人に、
他人の腹のことを考えろ、
自分の腹具合を晒すな、
と言っても無駄なことだろう。
だから僕は、メアリースーをまず書いてしまい、
自分の潜在的な欲求、全能感を満たせ、
と前記事で言ってみたわけだ。
自分のことでいっぱいいっぱいな人が、
他人のことまで客観的になっているわけがない。
それは女の運転する車だ。
(偏見が入っていますが、統計的事実です。
また、「駅でぶつかって来る男が多い気がしたので、
実際に統計を取ってみたところ、
ぶつかるのは周りを見てない女の方が多かった」
というTwitterが先日バズってたね)
人は、満たされたら賢者になるものだ。
あんなに求めて飢えていたのが満たされると、
人は周りを見る余裕が生まれるのである。
空腹のままの判断力の行動が、
いかに愚かで醜い身勝手な行為であるか、客観視できるわけだ。
いくらメアリースーはダメだぞって言ったって、
この客観視の経験がないと、
自己判断できない。
自己判断できないから、
「これはメアリースーだろうか、どうだろうか」
と疑心暗鬼に取り憑かれてしまうのだ。
「今回は大丈夫だと思ったのに、
よく見たらメアリースーだった、
どう判断したらいいんだろう」と、
自信がなくなってしまうわけだ。
だから、まずはメアリースーを喰らうべきだと思ったのだ。
いけないこと、禁忌なことは、
廃人にさえならなければ、試したほうがいいと思う。
僕がクスリに手を出さないのは、
不可逆変化をすることを知ってるからだ。
まずその幼児的全能感を、回復させたまえ。
おっぱいに揉まれて、絶対的な幸福を得たまえ。
そうすれば、
「それが足りなくてもがいている人」のことが、
よく見えるようになる。
「成功体験がなくて困っています。
どうしたら成功体験を積めますか?」
みたいなことだ。
まず小さい成功体験を積むのだ。
自分が見えてないものは、体験しないと分からないのだ。
さて、
メアリースーを体験すると、
他人が他人の幸せを追求している様を、
客観的に分析できるようになる。
そして、観客がそこに自分を投影していることを観察できるようになる。
なぜ投影するかというと、
観客も人間であり、メアリースーになりたいからだ。
その負の欲望を利用して、
しかもただおっぱいを与えるだけでなく、
まっとうな幸福を与えられるようになるには、
メアリースーに自分が囚われていては出来ないのだ。
妖怪退治をする人は、
妖怪に取り憑かれていては出来ない。
そんな感じ。
聖人になれというつもりはない。
「満たされない思い」は創作の根源であり、
創作に手を出す人は、普通の人より満たされていないと思う。
ただ、「人一倍満たされていないから、
私は真っ先に満たされるべきだ」という心理をなくせ、
ということを言っている。
みんな満たされてないんだから、
この物語で、
みんな少しでも心が満たされようぜ,
という風に見れるかどうかだと思う。
ストーリーテラーの、
実は一番大事な心持ちかもしれないね。
2021年01月01日
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