人はそんな病気にかかっているような気がする。
ああでもないこうでもないと、
色んな調整をして、
最終的に思い通りのものが出来上がるのはとても楽しい。
妥協を許さず頑張るのも満足感が高いし、
どんなに頑張っても理想に届かないことを知るのも、
人の不完全さを悟らせて楽しい。
だが、その苦労は、
それと等価のリターンを連れてくるとは限らない。
ほんとは、その苦労した部分を褒めて欲しいのである。
よくやったな、こんなの無理だとか、
なんという完成度か、とかね。
でもすこし考えれば分かるんだけど、
それが自然な出来であればあるほど、
それはスルッとスルーされるってことだ。
引っ掛かりがなく、
素直に受け入れられる、浸透の良さがあるということだ。
だから、そこは特に注目されない。
同じ作り手だけが分かる部分だ。
なるほどうまいことやったなと分かるのは、
作り手だけで、
作り手以外は「どう作るか」なんて知らないのである。
こんなに自然なのに、って言っても、
え、普通自然なんじゃないの、って聞き返される程度だろう。
僕はそれで良いと思っている。
それこそがプロの仕事であると。
ほんとうのプロの仕事は、素人には分からないのである。
プロの暗殺者は知らないうちに殺す。
でもそれじゃ分からなすぎてお金を取れないから、
わざとバーンって音を立てたりすることもあるよね。
つまり、
向こうから見て、見えている見えていないを、
あなたが見えていなくてはならない。
苦労したところが良く見える病気にかかっていると、
その認知が歪むのだ。
初恋の子を卒業アルバムで見ると、
すげえ不細工だったりしてびっくりすることがある。
あんなに可愛かったのに、
写真の中のあの子はそのへんの小学生だ。
主観的に見てはならない。
客観的に見なければ、
「みんなが見たそれ」を評価できない。
みんなが見た時、褒めるのはどこ?
それは案外適当にやった部分だったりするぞ。
あなたが楽をして作った所は、
あなたの長所が伸び伸び出ている所だったりするからね。
逆に苦労して作った所は、
弱点を必死にカバーしてるだけかも知れないのだ。
出来上がった部分に、コスト表が貼ってあるわけではない。
部分は消え、全体としか評価されない。
苦労した所がよく見えているのなら、
まだあなたは主観の魔法の中にいる。
気づいてもらえるのが嬉しいなどと思っているなら、
危険信号として気づくべきだ。
2021年01月05日
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