2021年01月05日

苦労したところがよく見える病気

人はそんな病気にかかっているような気がする。


ああでもないこうでもないと、
色んな調整をして、
最終的に思い通りのものが出来上がるのはとても楽しい。
妥協を許さず頑張るのも満足感が高いし、
どんなに頑張っても理想に届かないことを知るのも、
人の不完全さを悟らせて楽しい。

だが、その苦労は、
それと等価のリターンを連れてくるとは限らない。


ほんとは、その苦労した部分を褒めて欲しいのである。
よくやったな、こんなの無理だとか、
なんという完成度か、とかね。

でもすこし考えれば分かるんだけど、
それが自然な出来であればあるほど、
それはスルッとスルーされるってことだ。
引っ掛かりがなく、
素直に受け入れられる、浸透の良さがあるということだ。

だから、そこは特に注目されない。
同じ作り手だけが分かる部分だ。
なるほどうまいことやったなと分かるのは、
作り手だけで、
作り手以外は「どう作るか」なんて知らないのである。

こんなに自然なのに、って言っても、
え、普通自然なんじゃないの、って聞き返される程度だろう。

僕はそれで良いと思っている。
それこそがプロの仕事であると。
ほんとうのプロの仕事は、素人には分からないのである。
プロの暗殺者は知らないうちに殺す。
でもそれじゃ分からなすぎてお金を取れないから、
わざとバーンって音を立てたりすることもあるよね。

つまり、
向こうから見て、見えている見えていないを、
あなたが見えていなくてはならない。

苦労したところが良く見える病気にかかっていると、
その認知が歪むのだ。


初恋の子を卒業アルバムで見ると、
すげえ不細工だったりしてびっくりすることがある。
あんなに可愛かったのに、
写真の中のあの子はそのへんの小学生だ。

主観的に見てはならない。
客観的に見なければ、
「みんなが見たそれ」を評価できない。


みんなが見た時、褒めるのはどこ?
それは案外適当にやった部分だったりするぞ。
あなたが楽をして作った所は、
あなたの長所が伸び伸び出ている所だったりするからね。
逆に苦労して作った所は、
弱点を必死にカバーしてるだけかも知れないのだ。

出来上がった部分に、コスト表が貼ってあるわけではない。
部分は消え、全体としか評価されない。

苦労した所がよく見えているのなら、
まだあなたは主観の魔法の中にいる。
気づいてもらえるのが嬉しいなどと思っているなら、
危険信号として気づくべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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