2021年01月08日

世界の精度を上げ過ぎると、「表現」が死ぬ

僕は、表現とは「AによってBを表現する」
だと考えている。
世界の精度が上がり過ぎると、
「AでAを表現する」止まりになる気がする。


何度引用してもいい、レゴの広告。
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ただの赤い四角の集合体Aで、
飛行機Bを表現している。

このAの塊とBのペアが、表現だと僕は思う。

これが、何万ブロックも使って、
あるいは各専用パーツ(キャノピーとか、タイヤとか)を使って、
表現するのは表現ではないと思う。
それは精度を上げているだけで、
「四角で飛行機を表す」の枠組みから成長してなくて、
表現の純度を下げているとすら僕は思う。

HDになって、
宇宙人やヘンテコ生物の着ぐるみが、
出なくなったような気がする。

SD時代は、着ぐるみAでも別の生物Bに見えていた。
ある種の記号的見立てではあるものの、
それを一旦了解して、
宇宙人と人間のストーリーにのめりこめていた。

HDだと着ぐるみが着ぐるみにしか見えない。
AがAに見えてしまう。
ふなっしーやくまモンは、
「毛だらけのぬいぐるみを被った人」に見える。
そういえば「中の人」という表現が出来たのは、
HD時代になってからの気がする。
世界の精度が上がり、
AとBは分離されてしまった気がする。


AがAのままだと、
逃げ恥が、ガッキーと星野源に見える。
だから、「ガッキーと星野源が結婚するといいな」
とか思ってしまう。
Bであるところの役はどこかに行ってしまい、
Aだけで見てしまうわけだ。
ガッキーに言って欲しいことをガッキーに言わせて、
星野源がどうなるか見たいものを星野源にさせる。
ドラマだったはずのものが、
リアリティショーになっている。

リアリティショーは、
SD時代よりもHD時代に人気な気がする。
AをAとしてしか見れなくなった時代、かも知れない。


どういうAでどういうBを表現するか?
が表現のキモだというのに、
Aのリアリティで競う、誤りを犯している気がする。
もちろん、リアリティあるAで、
まったく別のBを表現できればいいけど、
Aを振りほどくのに時間がかかるようでは、
表現として二流だろうね。

テキストメディアやラジオなどの、
限定的なメディアが無くならないのは、
Aのコストが低いからだ。

映像や写真の解像度を上げれば上げるほど、
「ほんもののAを持ってくることで精一杯」
になってしまうと思う。
解像度だけ高くてゲーム性のない、
オープンワールドゲームなんかはその典型だろうね。


解像度の低い方が、
表現が豊かになる気がする。
あえて次元を落とした表現だけで考えると、
何か新しいものが生まれるかもしれない。

横尾忠則なんて、
「赤と青の絵の具しか使わない絵」なんて実験をしたくらいだ。
https://www.1101.com/boukenooooo/


縛りを入れてAを選ぶことは、
豊かなBを産む一つの方法だな。
posted by おおおかとしひこ at 00:09| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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