2021年01月12日

この話は、どこへ向かうのか

それが分からなくなったとき、
関心が離れて、目の前の焦点に集中できなくなる。

逆にいうと、「こっちへ向かっている」
という感覚があれば、その離れは起こらない。


向かう方向とは、
「センタークエスチョンの解決」である。

どこへ向かっているのかわからない困惑は、
センタークエスチョンと関連が薄いときに起こりやすいわけだ。

もちろん、
1分や2分本題から離れても、
それがあとで使われる予感さえあれば、
その違うことに集中できる。
しかし15分経っても本題に全然関係ないことをやっているのなら、
本題への関心は逸らされてしまっていると感じて、
集中力は落ちてくるだろう。

向かう方向は常にセンタークエスチョンの解決だ。
それは明示されているべきだし、
暗示であったとしても、
観客と共有されていなければならない。


主人公には目的がある。
それを達成すればお話は終わりだ。

その目的のために行動を起こしているのだから、
全然違うことにかまけている暇はないのだ。

だが、他の人は主人公と同じ目的である必然性はない。
その人の異なる目的を知り、
主人公の目的とある部分は共有できるなら、
仲間になれるかも知れない。

たとえば全然違う人と全然違う話をしていても、
「主人公の目的のために、
この人と妥協点を探している」と、
方向に対して明確に分かれば、
たとえ15分目的が見失われても、
観客は集中できるだろう。

逆に、どんなに面白おかしくても、
本題と関係ないことをやっていたら、
脱線している感覚になり、
それはどうでも良くなっていくと思う。

脱線が面白くてしばらく遊ぶことはあったとしても、
本題が疎かになるストーリーは、
歪でつまらないということである。

「SF/サムライフィクション」という映画の中で、
美女と戯れるサブストーリーが結構長かったんだけど、
「こんなことしてる場合ではない!」
と主人公が目覚めてやっと本筋に戻るギャグがあって、
その笑いが無ければ、退屈がやってきていたはず。
そうした強引なメタ視点であったとしても、
本筋に対して今どうなのかを意識させることは重要だ。



すべては、
メインの本題の方向性に対しての、
相対的な位置関係で決まる。

本筋を疎かにするのは、
忘れてるわけではなく、
脱線したい気持ちからだろう。
つまり本筋を進める困難さから逃れて、
脇道へ入って行っているのが作者の心理だ。

作者本人が楽しくても、
話が迷子になっていて、関心が離れかかっている、
つまりだれている、ということは自覚されたい。

むしろ、本筋から逃避できて楽しいと思う心理は、
その警告ランプであるとさえ言えるかもね。


今やっているその光景、その行動、その設定は、
本筋とどういう関係にあるのか?
本題をどう進められるものになるのか?
それが分かっているように、ちょいちょい我に帰ろう。

ストーリーとは常に、
「ゴールへ向かって一歩前進した(または後退した)」と、
ゴールとの距離関係で論じられるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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