それが分からなくなったとき、
関心が離れて、目の前の焦点に集中できなくなる。
逆にいうと、「こっちへ向かっている」
という感覚があれば、その離れは起こらない。
向かう方向とは、
「センタークエスチョンの解決」である。
どこへ向かっているのかわからない困惑は、
センタークエスチョンと関連が薄いときに起こりやすいわけだ。
もちろん、
1分や2分本題から離れても、
それがあとで使われる予感さえあれば、
その違うことに集中できる。
しかし15分経っても本題に全然関係ないことをやっているのなら、
本題への関心は逸らされてしまっていると感じて、
集中力は落ちてくるだろう。
向かう方向は常にセンタークエスチョンの解決だ。
それは明示されているべきだし、
暗示であったとしても、
観客と共有されていなければならない。
主人公には目的がある。
それを達成すればお話は終わりだ。
その目的のために行動を起こしているのだから、
全然違うことにかまけている暇はないのだ。
だが、他の人は主人公と同じ目的である必然性はない。
その人の異なる目的を知り、
主人公の目的とある部分は共有できるなら、
仲間になれるかも知れない。
たとえば全然違う人と全然違う話をしていても、
「主人公の目的のために、
この人と妥協点を探している」と、
方向に対して明確に分かれば、
たとえ15分目的が見失われても、
観客は集中できるだろう。
逆に、どんなに面白おかしくても、
本題と関係ないことをやっていたら、
脱線している感覚になり、
それはどうでも良くなっていくと思う。
脱線が面白くてしばらく遊ぶことはあったとしても、
本題が疎かになるストーリーは、
歪でつまらないということである。
「SF/サムライフィクション」という映画の中で、
美女と戯れるサブストーリーが結構長かったんだけど、
「こんなことしてる場合ではない!」
と主人公が目覚めてやっと本筋に戻るギャグがあって、
その笑いが無ければ、退屈がやってきていたはず。
そうした強引なメタ視点であったとしても、
本筋に対して今どうなのかを意識させることは重要だ。
すべては、
メインの本題の方向性に対しての、
相対的な位置関係で決まる。
本筋を疎かにするのは、
忘れてるわけではなく、
脱線したい気持ちからだろう。
つまり本筋を進める困難さから逃れて、
脇道へ入って行っているのが作者の心理だ。
作者本人が楽しくても、
話が迷子になっていて、関心が離れかかっている、
つまりだれている、ということは自覚されたい。
むしろ、本筋から逃避できて楽しいと思う心理は、
その警告ランプであるとさえ言えるかもね。
今やっているその光景、その行動、その設定は、
本筋とどういう関係にあるのか?
本題をどう進められるものになるのか?
それが分かっているように、ちょいちょい我に帰ろう。
ストーリーとは常に、
「ゴールへ向かって一歩前進した(または後退した)」と、
ゴールとの距離関係で論じられるべきだ。
2021年01月12日
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