2021年01月13日

主人公は、無色透明であるべきか

主人公は、無色透明であるべきか、
それとも癖があるほうがいいか?


僕は癖があったほうがいいと思っている。
それは、ひとえに感情移入と共感の違いを考えているからだ。

前記事でも論じたが、
共感は所詮小さな範囲でしか効果がない。
感情移入することよりも、嫌われないことのほうが重要だろう。
共感は「あるある」に過ぎず、
ないことがあると、共感しなくなるからだ。
ラブストーリーのヒロイン役が美人が選ばれにくいことと関係している。
イケメンを見に来ているわけだから、
美人が目立つな、ということだ。
こういうときはブス過ぎない、無色透明の役者が選ばれがちで、
しかも無難な役柄になっていることが多い。
多くの人が投影しやすいようにだ。
多部未華子なんかは、そういう役どころが多かった。

同様のことは、AV男優にも言える。
女優をみたいわけで、男優のケツをみたいわけではないからね。
なるべく映って欲しくないわけだ。
まあ男優は主役かというと話は別だが、
無色透明という点では、男優とは消えることが仕事だと言ってもいいくらいだろう。

共感ベースだと、そうした無色透明が好まれる。
嫌われる要素がひとつでもあると、
共感できないからである。
ドラクエの主人公は、「感情移入しやすいように」
喋らず、プレイヤーのうごきを邪魔しないように設計されているという。
このブログでの言い方では、感情移入ではなく、
投影というべきだろうね。

少年漫画の主人公は少年であるべきだ。
大人に囲まれても、何してもだ。
それは、少年の読者が共感できないからである。
女であったり、大人であったりすると、
よくわからないからだ。

大人が見る前提のものでは、
観客と必ずしも同じ性や年齢である必要はない。
共感する人しか見ないわけではなく、
知らない人の気持ちもある程度想像できる能力が、
少年よりもあると考えられるからだ。
(逆にいうと、ОLちゃんが見るためのドラマが、
ОLしか出てこないのは、ОLの理解力を馬鹿にしているわけだね)

無色透明であり、
特徴がない主人公は、
投影や共感に向いている。
癖があってはそれができないと信じられているわけだ。

一方、
癖があり、能力があり、
観客像とはまったく違った主人公は、
感情移入向きである。

共感も投影もないが、
感情移入ができたら、
つまり、
「この人は私と違うが、同じ立場になったら私もそうするだろう」があり、
「わかる」があり、
「案外自分と同じところがあるんだな」
と分らせることが出来たら、
その後は、その主人公に仲間意識が生まれ、情が湧き、
そして投影、共感が起こり始める。
感情移入なき投影や共感と同じ現象になってしまうのだ。

そして、観客とはまったく違う像であることから、
観客の限界以上の、
ものすごいことを達成できる、
というのが、
映画的物語の仕組みだと僕は考えている。

鍵は、感情移入に成功するかどうか、
そもそも共感の方法論でなく、
感情移入をさせようとしているか、
ということだと考えられる。


ドラクエの場合やAV男優の場合は、
一人称視点の体験だから、
主人公は影になって消えるべきなのだが、
それと感情移入を混同してはいけないということだ。

多部未華子の場合も同様で、
女が見たいのはイケメンに過ぎず、
それを主観的に眺めたいのに、他の女が邪魔するのが許せないだけだ。
ほんとうにやるべきは、多部未華子をまったく違う像に仕立て上げて、
彼女に感情移入してもらい、
彼女の目的への行動を見てもらうことである。
しかし容易に想像できるように、
それはなかなかに難しく、
結局は、
「なるべく消える無色透明の主人公を置いておいて、
ストーリーへの感情移入よりも、
イケメンたちを侍らせておけばOK」
という安易なものになりがちなわけだよね。


無色透明の主人公は、
そもそも起こることに感情移入なんてさせようと思っていない。
主人公は消えるべきか?
僕は、だれよりもアクが強く、濃い主人公のほうが、
面白くて遠くへ行けるストーリーが作れると考えている。

あるあるの共感なんて学校レベルの範囲しかないだろ。
映画は、もっと遠くまで行ける。
posted by おおおかとしひこ at 00:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。