2021年01月09日

無意識でやるべきこと

勉強は得意だけどスポーツや人付き合いが苦手なタイプの人は「意識ですべてを制御しようとしすぎ」てるのかも
https://togetter.com/li/1649072

本文中の「ポン、ポン、ポーン」は、
ちばてつや「明日天気になあれ」の「チャーシューメーン」ですな。(懐

演技、執筆は、これと同じなんだよね。



下手な監督は、
役者に具体的な指示をする。
「このタイミングで首をこれだけ傾けて」とか、
「ここで瞬きを」とか、
「抑揚をここでつける」とか。
まるでロボットを操縦するみたいに、
自分の欲しい演技を役者に要求する。

モデルは出来る。
普段身体をそのように預けるのが仕事だ。
カタログの服をよく見えるようにできる。
しかしモデルはセリフが下手だ。
きっと下手な監督のように、
具体的指示でセリフをコントロールしようとしてしまうからだ。

演技はそうではない。

ストーリーの、その瞬間に今いると想像して、
その役だったらどんな風に生きるだろう、
どうしてこんなことを言うんだろう、
言う理由はなんだろう、
そうか、こうしたいからか、
と台本から逆算して自分の意識に、
「こうしたいからこう言う」という指示を出すことだ。


もしそのタイミングでそう首を傾けたかったら、
具体を出さずに、理由を伝えるといい。

「言いながらちょっと嘘がバレてると気づいた」とか、
「小首を傾げるのが、可愛いと自分で知ってるから、
交渉の道具になると思っている」とか、
「先程の戦闘で首に違和感があるのを悟られたくない」とか、
「視線を外すことで相手に不安を与えるため」とか、
その文脈に応じて、
小首を傾げる理由を、監督はその場で捻り出すのだ。

その演技の目的、
「こうしたいからこう言う」の、
目的をさらに詳細に伝えるのである。

「絵面上いいから」「編集しやすいから」
「モンタージュ上そう言う意味になる」
など、メタである出来上がりの文脈を伝えてはいけない。

役者は世界の中に生きていて、
その世界で、とある目的のために相手に何かを言おうとしている存在だ。

それを理解しない下手な監督は、
「もっと気持ちをこめて」「ここを強く、ここを優しく言って」
などと、ロボットを操るように指示を出す。


「こうしようとしてこう言う」をしている登場人物に、
3Dモデルを操るように指示を出すべきではない。
登場人物には、目的を与えるのだ。

仮に、絵面上いいとか、その絵の方が好みだ、
というのが監督の本音だとしても、
それを言わずに、「目的を、たとえ嘘でもいいから捻り出す」
のが監督の仕事である。
その場でアドリブでね。
役者はモデルではなく、登場人物で、
共同執筆者であるからだ。

それが、自然な小首の傾げを生むのだ。
ただ3Dモデルが可愛いから小首を傾げる自動機械ではなく、
たとえば「嘘がバレているから間を取った」ような小首の傾げになり、
ストーリーはより緊迫するのである。

大声を出して欲しかったら、
相手の距離を遠くに変更すればいい。
あるいは、相手に「え?」とむかつく言い方で聞かせればいい。

「なぜその人はそれをするのか?」
を与えるのだ。


つまり、意識には目的を与えて、
無意識に具体は任せようというのが、
優れた監督の役者の操縦だ。

もっとも、「絵面上いいんで」とぶっちゃけて、
「芝居は良かったけどカメラの都合上」と、
立ち位置や目線を微妙に変える手もある。
よく撮ってくれてることを嫌がる役者はいないからね。
しかし大声でとか抑揚とか仕草は、芝居の領域だ。
それを意識的にコントロールするのは、下手のやり方だ。


これを読んでる役者の人がいるかは知らないが、
指示を具体で出す監督は下手だと知っておくこと。
自力で、その具体を無意識に渡すための、
意識的なもの「目的」をその場でアドリブで考えること。
なぜ小首を傾げるのか、納得いく目的が捻り出せれば、
あとはイメージし直して、無意識でヨーイスタートで、
OKを取れる。
「ハイハイそういう風にして欲しいんでしょ」と、
その時点で役者は監督を下に見るだろうけど。

何故なら、
役者は監督と物語の共同執筆をしているのであり、
指示通りに動くロボットではないからである。

モデルは指示通りに動くロボットで、
ミリ単位で身体を動かせる特殊なアスリートだ。
モデルと役者の違いはそこにある。
どっちも外面は美男美女だけど、
内面はまるで違うのだ。

(もっとも、日本ではモデルスタート役者転向、
というのがスタンダードなので、
どちらの能力も中途半端なのが育ちやすい)



で、脚本家としての本題。

僕は、執筆とは、
「具体的な指示を出して思い通りにするロボット演技」ではなくて、
「目的を各登場人物に与えて、
あとはアドリブで、ハイヨーイスタート」
というものだと考えている。

そうしないと、
各キャラが走らないからである。
自分の想定を超えた、超絶なセリフなんて、
無意識が書くのである。
意識で整えることは出来るけど、
それは教科書的な、座りのいい文章にしかならず、
心の底から絞り出した、心に伝わるものにならない。

だから、執筆はスポーツだ。
執筆は演技である。
構想、プロットこそが、監督の指示に当たるわけなのだ。

もちろん、行動するその具体や結果は決まっていて、
どうなるかも知ってるけど、
でもその場に初めて経験する人として、
役者のように執筆するのが、
最上のやり方だと僕は思う。


なので、執筆のテイク1は、間違ってもいいからやるのだよ。
勿論、それが良かったのなら一発OKを出して、
良くなかったら、こう直そうと分析して、
テイク2には、「ここで小首を傾げて」と指示を出さずに、
「実は嘘だとバレていると、知られてはならない」
と、目的を追加していくのである。

そうすると、
「チャーシューメーン」みたいに、
身体はうまく動くのだ。


余談だが、
これだからこそ、タイピングではなく手書きが最上だと僕は考える。
タイピングを研究すればするほど、
これをやるにはタイピングの動作は複雑すぎる。
無意識がタイピングをする、その領域が多すぎて、
言葉や思いをコントロールするメモリが足りなくなる。
タイピングをやった感はあっても、
目的を意識して芝居した感はないのだ。

手書きの方が無意識のメモリが広くなるので、
タイピングで書いてる人は、
一本オール手書きをやってみると良い。
慣れてくるとどっちでもいけるようになり、
さらに慣れてくると手書きの方が無意識の負荷が少ないとわかると思うよ。

僕はqwertyローマ字よりも圧倒的に負荷が少ない薙刀式を開発したが、
それでもフリック程度の無意識負荷はかかる。
文字を想像しないといけない。
手書きならば、「文字を想起する」が必要ない。



執筆に必要なのは、
各登場人物の目的が整理されていることと、
その気分が高まっていることだ。
どうしてもそうしたいと自分の無意識が思えたとき、
ヨーイスタートがかかる。

手は、それを記録するだけ。

テイク2以降は、無意識という役者に、
優れた監督の指示を出すだけだ。

リライトが上手くいかず、
第一稿より劣っていく現象は、
意識で直しているからだと思われる。
つねにテイク1をやる無意識になるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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