大上段に構えてみた。
主観や感情を排して、事実を簡潔に述べるのが科学。
事実を歪曲してまでも、主観や感情について語るのが芸術。
事実と真実は違う、なんてよくいう。
事実は目の前に起こったことそのものだが、
隠れているファクターに気づいたり、
目の前のことに誤魔化されずに、
本当に起こっていたことを見ることが真実である、
なんて言い方でよく言われる。
事実は隠蔽や見逃しや誤解があり得るということだ。
ジャーナリストは、事件の事実を取材して、
ほんとうは何が起こっていたかの、
真実を調べる者のことである。
科学者は、目の前にある実験的観測的事実から、
自然世界の法則性という真実について発見して、
その理論を仮定し、それが正しいかどうか検証する者のことである。
どちらも主観や感情を入れてはならない。
真実を探究する者は、
客観的にあることだけが頼りで、
そこから真実への推論は、
客観的に妥当で、論理的で、飛躍があるべきではない。
科学やジャーナリズムは、
個人の個性を消して、真実に身を捧げることである。
芸術は逆だ。
真実とは、世界の何かではなく、
「私の何か」である。
それを、絵画だろうが彫刻だろうが、
文字だろうが思想だろうが、物語だろうが、
音楽だろうが、踊りだろうが、
何かしらの物理を用いて、
表現することである。
その感情に、主観に深く入らなければ、
他の芸術との差別化が出来ない。
科学は差別化など必要としていない。
真実は差別化などいらないからだ。
芸術は差別化が必要である。
「そこにない、新しい主観の発見」が芸術の起源だ。
芸術が作者だけでなく、
一人だけのものにならず普遍性があるのは、
「その気持ちわかる」という、
人間の理解力による。
私にも似た経験がある(共感)、
私にはその経験はないが、
それを体験すればそのように私も思うだろう(感情移入)、
という、
「主観を共有する力」によって、
芸術は我々に共有される。
科学は主観を挟まない。
いわば、
「客観を共有する力」によって、
真実は共有されるわけだ。
科学は言語によって記述される。
より厳密には、数式のような主観を含まない言語でだ。
芸術は非言語によっても記述される。
主観や感情というのは厳密性を必要としないからだ。
たとえば「美しさ」は厳密に定義できないのに、
私たちはそれを感じることができる。
どちらも、私たちは理解して、共有することができる。
科学は主観を排して、普遍性を獲得する。
芸術は主観の奥底に入って、普遍性を獲得する。
原理が違う。
しかしどちらも大事なものである。
いつでも誰でも使える科学。
皆で共有することで、自分と共鳴する芸術。
両者のやり方を知っておき、
使いこなせると最強だ。
2021年01月17日
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