2021年01月17日

科学と芸術の違い

大上段に構えてみた。

主観や感情を排して、事実を簡潔に述べるのが科学。
事実を歪曲してまでも、主観や感情について語るのが芸術。


事実と真実は違う、なんてよくいう。

事実は目の前に起こったことそのものだが、
隠れているファクターに気づいたり、
目の前のことに誤魔化されずに、
本当に起こっていたことを見ることが真実である、
なんて言い方でよく言われる。

事実は隠蔽や見逃しや誤解があり得るということだ。

ジャーナリストは、事件の事実を取材して、
ほんとうは何が起こっていたかの、
真実を調べる者のことである。

科学者は、目の前にある実験的観測的事実から、
自然世界の法則性という真実について発見して、
その理論を仮定し、それが正しいかどうか検証する者のことである。

どちらも主観や感情を入れてはならない。
真実を探究する者は、
客観的にあることだけが頼りで、
そこから真実への推論は、
客観的に妥当で、論理的で、飛躍があるべきではない。

科学やジャーナリズムは、
個人の個性を消して、真実に身を捧げることである。


芸術は逆だ。
真実とは、世界の何かではなく、
「私の何か」である。
それを、絵画だろうが彫刻だろうが、
文字だろうが思想だろうが、物語だろうが、
音楽だろうが、踊りだろうが、
何かしらの物理を用いて、
表現することである。

その感情に、主観に深く入らなければ、
他の芸術との差別化が出来ない。

科学は差別化など必要としていない。
真実は差別化などいらないからだ。
芸術は差別化が必要である。
「そこにない、新しい主観の発見」が芸術の起源だ。

芸術が作者だけでなく、
一人だけのものにならず普遍性があるのは、
「その気持ちわかる」という、
人間の理解力による。

私にも似た経験がある(共感)、
私にはその経験はないが、
それを体験すればそのように私も思うだろう(感情移入)、
という、
「主観を共有する力」によって、
芸術は我々に共有される。

科学は主観を挟まない。
いわば、
「客観を共有する力」によって、
真実は共有されるわけだ。



科学は言語によって記述される。
より厳密には、数式のような主観を含まない言語でだ。

芸術は非言語によっても記述される。
主観や感情というのは厳密性を必要としないからだ。
たとえば「美しさ」は厳密に定義できないのに、
私たちはそれを感じることができる。


どちらも、私たちは理解して、共有することができる。

科学は主観を排して、普遍性を獲得する。
芸術は主観の奥底に入って、普遍性を獲得する。

原理が違う。
しかしどちらも大事なものである。

いつでも誰でも使える科学。
皆で共有することで、自分と共鳴する芸術。

両者のやり方を知っておき、
使いこなせると最強だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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