2021年01月21日

書くのが苦しいところは、結果的にいい場面になる

書こうと思うが書けない。
スケッチをしたりセリフを書いてみたり、
シーンのみでプロットを書いても、まだ書く気がしない。

作者の停滞はよくあることだ。
しかしそれは幸運であると考えるべきだ。
その書くのが苦しいところこそ、
結果的にいい場面になることが多い。


逆に、「書くのが簡単なところ」「バンバン進むところ」は、
どういうところか考えよう。

前から書きたかったところではないか?

それって実は、
「既にあるやつを真似したかったところ」じゃない?


イメージが湧きやすく、派手で、
動きの大きいところは書きやすい。

それってつまりは、「どこかで見たイメージの組み合わせ」
だからだ。
想起しやすく、表現しやすく、強いものは、
どこかで見たものが多い。

それそのものがなかったとしても、
アレとアレとアレを組み合わせれば出来るとか、
アレにアレ風アレンジをすれば出来るとか、
レシピがわかりやすいものだ。

「すげえ強い表現が思いついたぞ」
と思ってガンガン書けるところは、
つまりは既存のものを再利用しているだけで、
あなたの労力は小さいのである。

だから調子良く書けるわけだ。


ところが、
書けない部分というのは、「難しいところ」
であることがとても多い。

どうやっていいか分からない、
糸口が見つからない、
絵が思い浮かばない、
どうやって話せば話したいことが話せるか、
混沌として整理できない、
そもそも言語化できない、
なんて部分が、
「難しいところ」だと思う。

この足踏みをずっと続けていると、
疲れてしまう。
なんなら自信もなくなってくる。

過去にあんなに面白いものを書けたのに、
今書けないのは才能がないからでは?とね。

じゃあ書けたところはオリジナル部分がどれだけあるのか、
ってことだ。


書けないところは、
実はほんとうのオリジナルの所なのだ。

派手なアクションや名場面なんて、
正解のある組み合わせである。

書けないところは、正解がないところを、
正解を考えるだけの時間が必要なのである。

だから、速度がガクンと落ちる。


最初はあんなに書けたのに、
今何も書けなくなっているときは、
「誰もやってない自分だけの課題」
だと考えるといい。

そうすると、
独自の話法で突破するとか、
アレを利用した場面なら書けそうとか、
書けない部分のうち前半1/3だけは取り掛かれそうとか、
部分的な解法を思いつくと思う。

そんな難しいところに、
鮮やかな名場面のような豪快な解があるとは思えない。
少しずつ解きほぐして、
少しずつ進む場面にしかならない。

とにかく少しずつ解いていく。

そうすると、また見通しの良い、
速度が戻る場面がやってくる。

あとから振り返れば、
書けなかったところは、
他の作品にはない、
その作品独自の風格があるところになる。

派手で動きの多い名場面ではなく、
あなた以外は出来なかったやり方で、
地味に話を上手に進める場面になるはず。

それは誰からも気づかれない。
見たことのあるものの組み合わせじゃないから、
理解できないのだ。


その不可知な部分を抜けることが、
実は創作なのかもしれない。

爽快に書けて、たのしいーって場面は、
創作なんてしてないのだ。
何かを混ぜてコピペしてるだけだ。

書けない暗黒部こそ、
あなたが本格的に取り組むべき核なのだ。

上澄みはさっさと済ませて、
その、すぐには書けない、
書きづらい、難しいところに挑むのだ。


それは本編に何回もある。
全体の何割かは分からないけど、
半分くらいは書くのが難しい場面があるよね。

すぐは書けないパートだからこそ、
オリジナルになると思う。



結果的に難所だったかどうかなんて、誰にも分からない。
だから世の中の作品が難所越えを沢山していることすら、
あなたは見てこなかったのだ。
自分でやってみて初めて、
難所越えをしなければならないことを自覚したのだと思うと良い。
posted by おおおかとしひこ at 00:03| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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