書こうと思うが書けない。
スケッチをしたりセリフを書いてみたり、
シーンのみでプロットを書いても、まだ書く気がしない。
作者の停滞はよくあることだ。
しかしそれは幸運であると考えるべきだ。
その書くのが苦しいところこそ、
結果的にいい場面になることが多い。
逆に、「書くのが簡単なところ」「バンバン進むところ」は、
どういうところか考えよう。
前から書きたかったところではないか?
それって実は、
「既にあるやつを真似したかったところ」じゃない?
イメージが湧きやすく、派手で、
動きの大きいところは書きやすい。
それってつまりは、「どこかで見たイメージの組み合わせ」
だからだ。
想起しやすく、表現しやすく、強いものは、
どこかで見たものが多い。
それそのものがなかったとしても、
アレとアレとアレを組み合わせれば出来るとか、
アレにアレ風アレンジをすれば出来るとか、
レシピがわかりやすいものだ。
「すげえ強い表現が思いついたぞ」
と思ってガンガン書けるところは、
つまりは既存のものを再利用しているだけで、
あなたの労力は小さいのである。
だから調子良く書けるわけだ。
ところが、
書けない部分というのは、「難しいところ」
であることがとても多い。
どうやっていいか分からない、
糸口が見つからない、
絵が思い浮かばない、
どうやって話せば話したいことが話せるか、
混沌として整理できない、
そもそも言語化できない、
なんて部分が、
「難しいところ」だと思う。
この足踏みをずっと続けていると、
疲れてしまう。
なんなら自信もなくなってくる。
過去にあんなに面白いものを書けたのに、
今書けないのは才能がないからでは?とね。
じゃあ書けたところはオリジナル部分がどれだけあるのか、
ってことだ。
書けないところは、
実はほんとうのオリジナルの所なのだ。
派手なアクションや名場面なんて、
正解のある組み合わせである。
書けないところは、正解がないところを、
正解を考えるだけの時間が必要なのである。
だから、速度がガクンと落ちる。
最初はあんなに書けたのに、
今何も書けなくなっているときは、
「誰もやってない自分だけの課題」
だと考えるといい。
そうすると、
独自の話法で突破するとか、
アレを利用した場面なら書けそうとか、
書けない部分のうち前半1/3だけは取り掛かれそうとか、
部分的な解法を思いつくと思う。
そんな難しいところに、
鮮やかな名場面のような豪快な解があるとは思えない。
少しずつ解きほぐして、
少しずつ進む場面にしかならない。
とにかく少しずつ解いていく。
そうすると、また見通しの良い、
速度が戻る場面がやってくる。
あとから振り返れば、
書けなかったところは、
他の作品にはない、
その作品独自の風格があるところになる。
派手で動きの多い名場面ではなく、
あなた以外は出来なかったやり方で、
地味に話を上手に進める場面になるはず。
それは誰からも気づかれない。
見たことのあるものの組み合わせじゃないから、
理解できないのだ。
その不可知な部分を抜けることが、
実は創作なのかもしれない。
爽快に書けて、たのしいーって場面は、
創作なんてしてないのだ。
何かを混ぜてコピペしてるだけだ。
書けない暗黒部こそ、
あなたが本格的に取り組むべき核なのだ。
上澄みはさっさと済ませて、
その、すぐには書けない、
書きづらい、難しいところに挑むのだ。
それは本編に何回もある。
全体の何割かは分からないけど、
半分くらいは書くのが難しい場面があるよね。
すぐは書けないパートだからこそ、
オリジナルになると思う。
結果的に難所だったかどうかなんて、誰にも分からない。
だから世の中の作品が難所越えを沢山していることすら、
あなたは見てこなかったのだ。
自分でやってみて初めて、
難所越えをしなければならないことを自覚したのだと思うと良い。
2021年01月21日
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