2021年01月26日

物語とは、理解をエンターテイメントにしたものだ

極論。


たとえばミステリー。
この先、この謎が解明して欲しいと思って先を見るわけだ。
良く出来たミステリーはなかなか全貌を見せず、
しかもラストに全部がわかったとき、ああとなるように出来ている。
つまり、謎の理解の過程である。

極端なミステリーでないにしても、
「この先どうなるのか?」は、
常にストーリー上の謎だと言える。
それが全部わかったとき、
全貌が解明されたと思って、話は終わるのだ。

極論するが、ストーリーとは分ったら終わりなのだ。
「分る」とは、
「全貌で、ひとつも分らないところ、あきらかになっていないところ、想像で補完できないところ」
がなくなるということだ。
全部わかってスッキリすることが、
ストーリーを見終えるということだ。

ああかもしれない、こうかもしれないと思い、
なるほどこうだったのか、と納得し、
これはどうなんだろう、ああそういうことだった、
といろいろに思考し、
矛盾のない、すべてに手が届いたときにストーリーは終わるのだ。

科学はちなみにこうではない。
あることが分れば次の謎が生まれてしまう。
「ここまでは分っていて、ここからは謎である」
という状態しかなく、
「すべて解けた」はない。
宇宙の謎がすべて解ける日は来ないし、
脳が解明されることはない。
古典力学ですら、多体問題は未解決である。

だから、我々は「すっきり全部解けた」を求めるのだろう。
パズルの面白さは、完全に解けることにある。
未解決の部分が残るパズルなどないからね。
人工でつくったエンターテイメントというものは、
つまりは「すべて解けること」が前提かもしれない。
人の手でコントロールできない部分が残るのは許される。
たとえば麻雀の確率とか。
しかし人の手でコントロールできる部分で、
すべて解けない部分はすっきりしないということだ。

逆に、ストーリーとは、
「すべて理解した」を提供する娯楽だということだ。

あの人はなぜあの時あんなことを言ったのか、
決断したのか、思ったのか。
なぜこんな事件が起きて、どうやって解決できたのか。
なぜ主人公がこれを解決できたのか。
これらが矛盾なく解決したとき、
「すべて理解した」となるだろう。

それがないやつは、「なんかもやもやが残る」となり、
ずっと引きずることになるだろう。
それは一種の詐欺だ。
理解を要求されているところに、理解できないものを放り込んでいるからね。


なぜあの時こうしたのか。
すべてに答えられるようにしよう。
理解できるものにしよう。
長いものほどほころびが出るから、
まずは短いもので鍛えよう。

最大の謎は、テーマである。
全貌を俯瞰できたとき、浮かびあがってくるものだから、
最後まで見ないと分らないものだ。
それがわかったときに、腑に落ちて終わるだろう。


理解とは、
「それを理解したい」と思えなければ、
最後までついてきてくれないものだ。
まずそれをどうやって作るかだね。
しかも全貌を見終えたときに、
見て損した、と思われない、
満足するものでないと、「良い理解」とは言えないだろう。


一回理解したらもう見ない?
いや、毎度「知らない状態から理解した状態」になることがおもしろければ、
毎回知らないところから始めて、
理解した、というエンドに来ることが楽しくなるよ。

人生、知らないことだらけだろ?
posted by おおおかとしひこ at 00:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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