極論。
たとえばミステリー。
この先、この謎が解明して欲しいと思って先を見るわけだ。
良く出来たミステリーはなかなか全貌を見せず、
しかもラストに全部がわかったとき、ああとなるように出来ている。
つまり、謎の理解の過程である。
極端なミステリーでないにしても、
「この先どうなるのか?」は、
常にストーリー上の謎だと言える。
それが全部わかったとき、
全貌が解明されたと思って、話は終わるのだ。
極論するが、ストーリーとは分ったら終わりなのだ。
「分る」とは、
「全貌で、ひとつも分らないところ、あきらかになっていないところ、想像で補完できないところ」
がなくなるということだ。
全部わかってスッキリすることが、
ストーリーを見終えるということだ。
ああかもしれない、こうかもしれないと思い、
なるほどこうだったのか、と納得し、
これはどうなんだろう、ああそういうことだった、
といろいろに思考し、
矛盾のない、すべてに手が届いたときにストーリーは終わるのだ。
科学はちなみにこうではない。
あることが分れば次の謎が生まれてしまう。
「ここまでは分っていて、ここからは謎である」
という状態しかなく、
「すべて解けた」はない。
宇宙の謎がすべて解ける日は来ないし、
脳が解明されることはない。
古典力学ですら、多体問題は未解決である。
だから、我々は「すっきり全部解けた」を求めるのだろう。
パズルの面白さは、完全に解けることにある。
未解決の部分が残るパズルなどないからね。
人工でつくったエンターテイメントというものは、
つまりは「すべて解けること」が前提かもしれない。
人の手でコントロールできない部分が残るのは許される。
たとえば麻雀の確率とか。
しかし人の手でコントロールできる部分で、
すべて解けない部分はすっきりしないということだ。
逆に、ストーリーとは、
「すべて理解した」を提供する娯楽だということだ。
あの人はなぜあの時あんなことを言ったのか、
決断したのか、思ったのか。
なぜこんな事件が起きて、どうやって解決できたのか。
なぜ主人公がこれを解決できたのか。
これらが矛盾なく解決したとき、
「すべて理解した」となるだろう。
それがないやつは、「なんかもやもやが残る」となり、
ずっと引きずることになるだろう。
それは一種の詐欺だ。
理解を要求されているところに、理解できないものを放り込んでいるからね。
なぜあの時こうしたのか。
すべてに答えられるようにしよう。
理解できるものにしよう。
長いものほどほころびが出るから、
まずは短いもので鍛えよう。
最大の謎は、テーマである。
全貌を俯瞰できたとき、浮かびあがってくるものだから、
最後まで見ないと分らないものだ。
それがわかったときに、腑に落ちて終わるだろう。
理解とは、
「それを理解したい」と思えなければ、
最後までついてきてくれないものだ。
まずそれをどうやって作るかだね。
しかも全貌を見終えたときに、
見て損した、と思われない、
満足するものでないと、「良い理解」とは言えないだろう。
一回理解したらもう見ない?
いや、毎度「知らない状態から理解した状態」になることがおもしろければ、
毎回知らないところから始めて、
理解した、というエンドに来ることが楽しくなるよ。
人生、知らないことだらけだろ?
2021年01月26日
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